「都学連行動隊」手記
1999.4.17 更新  
 ここで紹介する文章は、東大闘争が高揚していた1968年、日本共産党−民主青年同盟系の諸君が「はじめて公然と大衆的に武装した」瞬間を、彼ら自身の側から赤裸々につづったものです。
 日本共産党は、さまざまな分派闘争をくぐり抜けながらも、60年代後期にほぼ宮本顕治独裁体制が確立されました。そしてその直後から、急速に右旋回、どころか共産主義者としての原則を大胆にかなぐり捨てていきます。
 一方、新左翼はこの時期、70年安保、全共闘運動などの高揚に支えられ、急速にその影響力を大きくしていました。東大においても、68年3月の医学部学生に対する濡れ衣処分を起爆とし、反体制的な意識を急成長させながら闘争の全学化を克ち取りつつありました。
 60年安保で第1次ブントに乗り越えられた日共が、70年安保・全国学園闘争で最終的に「体制派」の烙印を押されつつあったこの時期、もちろん彼ら/彼女らは手をこまねいていたわけではありません。
 大きな限界を持ちつつも日本反体制運動史上に残る「権力との目的意識的・恒常的対峙」を追求し、多くの学生をこれに引きつけつつあった全共闘運動に対し、あくまでも「学園民主化」なる手前味噌なスローガンを対置し、闘争沈静化を願う右派学生をとりこみつつ反撃を伺っていた彼ら/彼女らは、同年8月に開かれた彼らの自前「全学連」第19回大会で、ついに、闘う部分に対する武装襲撃を公然と宣言しました。
 反全学連諸派の不正選挙、執行部への不当な居すわり、自治会の暴力的占拠、第二自治会のデッチあげなどの卑劣な策動を軽視することなく、あえてかれらが暴力的手段に訴えるならば正当防衛権を行使してこれを粉砕し、彼らの暴力に屈して、逃げ回ったり、主張を曲げたり、あるいは逆上したりする傾向と闘い、彼らがあくまでも暴力をもって攻撃をしかけてくるならば、学友の力を結集し、正当防衛圏を断固として行使し、実力をもって粉砕する。
 そして、この方針が東大でまさに実践へと移されたのが、その2週間後、9月7日。ついに、黄ヘル部隊が登場します。


病院封鎖に正当防衛権行使

 中央委は、もし病院封鎖が実行されれば、機動隊が再度、学内に入ってくるという情勢の重大さを考慮して、全学連一九回決定にもとづき、全共闘の暴力に対して正当防衛権を行使しても阻止することを準備していた。
 全共闘の暴力的封鎖に対して、これをただ手をこまねいて傍観していることも、大学当局のように機動隊に対策を“お願い”することも、政府や学内反動勢力による大学自治破壊をそのまま容認することになってしまう。
 全共闘の暴力をゆるさないためには、社会常識としても、法律でも当然のこととされている正当防衛権を行使する以外にない。そして、その立場を民主的学生が選ぶということは、ヘルメットをかぶり、角材で襲撃してくるものに対して、その防衛のためにヘルメットも角材も身につける必要があるということを決意することであった。

※いずみ、そんな「社会常識」が日本にあったなんてまったく知りませんでした(笑)。いやー、日本共産党の言うことはタメになるなぁ(爆笑)
 決起集会は学生・院生・職員六〇〇名が参加して開かれ、各代表より先に述べたスローガンの路線にそって決意表明が活発に行われていた。ところがこの集会に向けて社学同、革マル系の学生一二〇名がヘルメット・角材を手にして無防備の学生をメッタうちに襲いかかってきた。全員が「暴力反対!帰れ帰れ!」のシュプレヒコールを叫ぶ中で、彼らはいったん引きあげていった。このとき、この集会に参加していた都学連行動隊はヘルメットを着用し、参加学生にヘルメットを次々に手渡していった。こうして九・七集会は夜になるとその数は一〇〇〇名になり、病院封鎖を実力で阻止できる防衛隊を組織して集会を続行したのである。決起集会は当面の方針として九・一一決起集会では、九・一八全階層ストにむけて闘いを結集していくことが確認された。

※なんだかんだ言ってるけど、よーるすに、都学連「外人」部隊は「あらかじめ」黄ヘルと角材を用意してたってことですよね。一般の参加者には極秘裏に。日共系は、そーゆーやり方を自分たち以外がすると大々的に糾弾するんですけどねぇ...(笑)

 手記<九・七病院封鎖阻止とヘルメット>大学院生B
 七月二日の安田講堂再占拠、八月二八日の医学部本部封鎖の後、全共闘は医科歯科大ばりに病院封鎖をねらっていた。
 政府は、「もし病院が封鎖されるようなことがあれば、大学に自治能力はないものとみなし。その置きは、独自の処置をとる」といって、機動隊の出動を示唆していた。
 九月七日、安田講堂で全共闘系の「医学連大会」では、「この大会の力で一気に病院封鎖を貫徹しよう、これは市民主義の枠をのりこえたたたかいだ」という議案書がくばられていた。
<病院封鎖はどうしても阻止しなければならない。もし病院封鎖が強行されたら、必ず機動隊が学内にはいってくるのだ。>
 その日の昼、七者協は、「大学民主化、自治擁護、国家権力の介入反対、病院封鎖阻止」のスローガンをかかげた集会を病院前で開いた。

※「七者協」は東大内の学生自治会・院生協議会・寮連・生協理事会・労組3団体から成る「各階層の協議機関」。早い話が日共−民青系の「統一と団結」の象徴です。
 病院の付近で、私はばったり病院職員のNさんにあった。彼は無精ヒゲののびたあごをなでながら、はきだすようにいった。
 「ふざけやがって。もし病人が死んだらどうするってんだよ、なあ奴ら全く気狂いだ」
 私はニヤニヤしながらいった。「それは市民主義だっていっているよ」
 「冗談じゃねえよ。機動隊をいれたくてしょうがねえんだなぁ。政府が喜ぶわけだよ」

※これが、精神科を持つ病院の「民主的な職員」の言辞なわけです。いずみは、自分が神経症になっても、こんな職員のいる病院にはかかりたくないですね(苦笑)
 集会が終わりかけたころ、ヘルメット、角材で武装した一五〇人位の全共闘がいきなりなぐりこんできた。六〇〇人の無防備の集会参加者に角材がふりかざされた。学生・院生・職員の頭が、肩が、背中が……。残忍そうな顔つきの白ヘルメットがふりおろした角材が真中から二つにおれた。
 「帰れ!帰れ!」 激しいシュプレヒコールの中で、彼らはまもなく引きあげていった。参加者は緊張につつまれて、集会を続行した。

※あれ?上の方では「一二〇人」になってなかったっけか?(^^;;)。別に「主催者発表」でもいいから、すぐバレる操作はやめようね(笑)
 病院玄関前の集まりから一かたまりはなれて、都学連の支援部隊がすばやくヘルメットをかぶった。
 「……われわれは断固として病院を守るんだ。暴力には実力を行使しても絶対に守りぬくんだ。……」という言葉が私の耳にはいってきた。
 <おう、これが一ヶ月ほど前に開かれた全学連第一九回大会の「戦闘的、民主的学生運動の実践なのか。中央委の断固阻止ということか。> ゲバルト経験のない私には、全共闘の暴力をはねのける心強い支えと感じられた。
 夜にはいって、そばでみていた人々も加わり、学生、院生、職員、都学連で一〇〇〇人余にふくれあがった私達の集団は整然と坐りこんだ。静かな中に決意を固めながら。東大生もふくめて全員黄色のヘルメットをかぶり、一メートルほどの角材をもった。<全共闘、いつでもこい>ということだ。

※これはまだ、角材だからミテクレほどの威力はない(相対的には「安全」)んですが、この後、全共闘の武器が鉄パイプへと、ある意味形式主義的に(当時のは重くて使いづらかったらしい)変化していくのに対し、日共−民青黄ヘル部隊の武器はきわめて実践的に、殺傷能力を高めた、釘を打ちつけた樫棒へと進化していきます。それでも「正当防衛権」だったらしいですけどね(笑)
黄ヘル部隊
東大病院前で気勢をあげる黄ヘル部隊
(モノクロで残念!(嘲笑))
 この日、東大民主化をたたかう部隊がはじめてヘルメットをかぶった。角材ももった。そんなことを予想もしていなかった院生の中にはとまどいと疑問が生まれた。
 「いいんですか? 学生は角材をもちはじめましたよ。これはどういうことですか?」「しかしだ。全共闘の暴力を許さないためにも、機動隊導入−国家権力の介入を阻止するためにも、これは必要なんだ」
 私は思った。<ぼさっとしていれば病院封鎖は強行される。機動隊がはいってくる。そうなれば民主的運動は窒息させられてしまうではないか。基本はあくまでも政治的に全共闘を孤立させることだが、ゲバ棒をもってでもそれは阻止しなければならないんだ。われわれのたたかいを新しい質に−−正当防衛権を具体的に行使する段階にひきあげることを情勢が要求しているんだ。それは暴力反対だけで今までいっしょにやれた教官や院生、学生の一部が離れていくことになるかもしれない。しかし、情勢に答えるわれわれのたたかいは新しい質とひろがりをもって進むだろうし、それでなければならないのだ。彼らもまた戦列に戻ってくるだろう。>
 なおも問いかけるF君やK君の顔を見、<わかってもらいたい>と思いながらも、転機のもどかしさを私は感じた。

※すばらしすぎます!「情勢に答える」(これ、「応える」だとは思うですが^^;;)結果がヘルメットと角材、とゆーのは、まじめに正しすぎてて(爆笑)。
 もちろん、実際にその角材が向けられた先は、国家権力でも大学当局でもなかったわけですが...(苦笑)



 全共闘運動は、国際的な70年前後の反体制運動の高揚、国内での70年安保闘争の高揚と前後して、学園での闘いを、単なる学園内改良闘争というワクに納めるのではなく、権力総体と、そして自分自身とも闘ってゆく、壮大な闘いでした。そして、特に東大全共闘にとっては、東大とは「搾取・抑圧・差別のための機関」であり、「自分たちがそんな東大の学生として在ること」自体に対する闘いでもありました。「帝大解体」スローガンは、抑圧者として存在する自分たちを解体−解放するためのものでもありました。
 しかし日共にとっては、大学は「政府・支配層の完全な支配が及んではいない場」であり、情勢や力関係によっては「米帝国主義とそれに従属する日本支配に反対する闘いの1拠点となりうる場」でもあったわけです。そしてその「力関係」により、「それまでは教官だけが一方的に運営していた大学自治に、学生や職員も参加させよ」という「大学民主化」こそが学園闘争の目標になります。自分たちは日米反動勢力から抑圧されている被害者であり、闘うべき本当の敵は日米の支配層のみであり、そのための「統一と団結」を乱す輩は「闘いの1拠点となりうる場を破壊する挑発者」ということになるわけです。
 実際問題として、「大学自治」とゆー概念は、当時の教官や日共系学生のみならず、右派やノンポリ学生、のみならず全共闘派学生にとっても、まだ実体を持つ概念として存在していました。そして全共闘は、自らの闘いをさらに突出させていく中でその否定を叫び、他の部分と先鋭的に対立してきたわけです。
 そして、それはまさに「出口のまったくない」闘いだったがために、闘争が長期化する中で展望を分散させ、戦闘性を各党派(いわゆる「三派」=中核・解放・ブントをはじめとする八派連合など)に吸収されて縮小への道を辿ります(もちろん、そのエッセンスは「ノンセクト」とゆー形で学園内に残されてきました。いずみが結集していた東大文理研は、まさに、東大全共闘の末裔です)。
 一方で、その闘いは「出口のまったくない」故に、事態を収拾しようとする教官側からすれば「解決策を見いだせない」、途方に暮れざるを得ないものでした。もちろん彼ら/彼女らは、「大学の自治」(ただしそれは教授会自治)を守りたい観点から、機動隊を導入することにも躊躇せざるを得ない。
 そして、そのために最大限に活用されたのが日共−民青系諸君だったわけです。全共闘のような分散・開放型の組織に比して、彼ら/彼女らの「統一と団結」への宗教的確信は強かったのです。実際に黄ヘル部隊は全国各地で「封鎖解除」のための武装襲撃を繰り返し、それによって大学側に「恩を売る」作戦が行われていきました。
 東大駒場においても、スト「解除」後の、封鎖されていた第八本館に対する日共系学生の襲撃は凄惨を極めました。ピッチングマシンを使っての夜通しの投石、ライフラインの破壊、「捕獲」した全共闘系学生に対する集団リンチの横行など…
 もちろんそれは軍事的視点から見れば「アタリマエのこと」を彼ら/彼女らが実践したに過ぎません。しかしそれらは、彼ら/彼女らが学園の「外側」で喧伝してきた自らの政治姿勢とは全く相反するものです。
 そして実際に、日共−民青はこれ以降、その社民的政策を打ち出してゆく際の「共産主義」的粉飾すらも放棄し、体制内反対派として純化していきます。
 また、学園においては彼ら/彼女らは、その当時の思惑に反し、学園全体の「民主化」をそれ以上推進することもできなかったし、学園を運動の拠点とすることもほとんどできていません。日共系全学連は現在、その多くの加盟自治会がノンポリ化し、党中央の指導も虚しくどんどん形骸化をすすめています。

 …と、当時の歴史をいずみなりに消化して分析すれば上記のとーりなのですが、個人的想いとしては、とりわけ、上記の「手記」には、読んでからしばらく後になって、強く印象に残ってしまう体験をしたのです。
 というのは、実際に東大で彼ら/彼女らが被っていた黄ヘルを、いずみは89年初頭にこの眼で見ることとなったからです。
 さすがにそのようになった経緯は一生書くつもりもないのですが、ともかく、東大全共闘が「押収」していたその大量のメットには、「全学連」「学園民主化」「反帝反トロ」(!)などのスローガンが書きなぐられていました。
 既にいずみは運動から逃亡する寸前ではありました。そしてもちろん、上記の手記だって読んでましたし、各戦線の大先輩^^;;からお話を伺うこともあったわけです。でも、しかし、実際にナマで見たその黄色いヘルメットの数々には、本当に言葉を失いました。彼ら/彼女らが当時誇らしげに語っていた「新しい質とひろがり」の実態は、ただ単に当時の全共闘的「時代の空気」に媚びるだけの「いかにもスターリン派的」戦術に過ぎなかったことが、そのメットに書かれたスローガンからひしひしと伝わってきたのです。
 いずみの頭の中では、それまでの4年間に学園で、寮で、「障害者」戦線で、日共−民青系諸君が成してきたことへの多大なる反感が、その大量の黄ヘルとストレートに結びついてしまいました。



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