「三里塚現闘体制の撤退に関する決議案」
1999.6.11 1個所修正  
1999.4.17 確定  
 このページで採り上げた論文は、青年共産主義者同盟(準)という、弱小ドマイナー党派(^^;;)の機関誌「国際主義」18号(1987年2月号)より引用したものです。
 仏教徒から新左翼へと転身したいずみは、党派的凝縮を一般に嫌っていました。それは、眼前でさまざまな党派的策動を行う日共−民青系諸君に対する即自的反発のせいでもあったし、また自分自身の「思いどーりにしたい」とゆー発散性(単なるわがまま、ともいう^^;;)のせいでもあったかも知れません。
 そしてそのせいか、86年、街頭ヘルメットデモに繰り出しはじめた頃は、「反レーニン」−外部注入論の否定・前衛党の否定を公然と掲げていた解放派(もちろん、革マルと殺し合いやってる狭間派の方ではなく、穏健な労対派の方)、それからブントの一派を名乗りながらもほとんど党派性がなく、会議に出てきた幹部が「オレって左翼なのかなぁ...」とかつぶやく始末の(笑)共産同プロレタリア派・通称竹内ブントには妙に共感を覚えていました。
 しかし人間、ある程度まじめにやってれば、自分は何やってるんだろー、とか思うわけじゃないですか^^;;。で、その時たまたま触れてしまったのが、青共同のパンフレット「マルクス・レーニン主義をかかげて」だったのです。
 ざっと読んで、本当に驚きました。83年に不幸な分裂に至った三里塚反対同盟について、当時それなりに盛り上がりつつあった反原発運動について、それから野合大好きな(^^;;;)いずみの眼からしても「やりすぎ」と映っていた(笑)反天連や反安保関係の共闘関係について、他のどの党派とも違う独自の理論が展開され、それらがいちいち「お説ごもっとも。」といずみには映りました。
 そしてさらに読み込んでいくと、「現代社会は、レーニンが説いた時代認識から何ら変わっていない」「階級意識は政治闘争でこそ成長する」「反スタ主体性論ではなく、弁証法的認識論に基づく意識変革を」などなど、それまでのいずみには思いもしなかった主張が展開されていました。
 いずみはなぜか、それまでの自分の意識とは180度逆の立場で主張する青共同に、急速に興味を覚えていきます。

 青共同は、赤ヘルかぶって、三里塚開港阻止決戦などでは大衆的実力闘争も担ってきた党派です。しかしなんと、その出自は、そのような闘いを、どころか学生運動一般すらも「児戯」扱いする、元社会主義協会(社会党左派)太田派=「人民の力」派に極めて近い部分なのです。もうこの時点で「かなりヘン」です(笑)(だから、労活評の灰色ヘルみてコーフンしてた「マイナーもの好き」ないずみにとっては、上記の「まじめな」部分以外にも「そそられる」部分があった、とは言えます^^;;)。
 理論の上でも、「(日本を帝国主義国規定している=農民に階級としての革命性を認めないにもかかわらず)三里塚闘争はプロレタリアートの闘争として位置づく」「旧三派の70年代安保闘争を清算してはならない」など、「この人たち、本当に『元社民』なんでしょーか?」と思わず首をかしげてしまいそーです。
 また、三里塚闘争では、「分裂は否定的事態」「『大義』『営農意識』などを掲げるのは三里塚闘争の意義の清算」など、他のほとんどの熱田派支援党派が「分裂で中核から離れてのびのび闘える」と喜んでいたのとはまるで対照的な主張を行っていました(ただし、「分裂の直接の引き金は中核派の個人糾弾」とも言っていましたが)。
 そして何よりも、この党派は、自己の絶対化を注意深く避けていたのです。
 もちろん、党派は党派ですから自画自賛もあるわけですが(笑)、自らの無謬性は目的意識的に否定し、限界をいくつも挙げて「自分たちはまだ革命潮流になりきってはいない」ことを明言する姿勢は、他の党派には見られないものでした。
 「弱小党派だから言いたいことを言えた」とゆー面はあったと思いますが、反天連系に結集する各党派がみな小さいまま野合するだけだった現状を見ていたいずみとしては、やっぱり「すべてが新鮮」に見えたのです。

 86年当時、青共同は既に反天連系各潮流とは一線を画しており、またいずみは諸事情により(泣)三里塚では北原派に参加(not結集)していたため、いずみは彼ら/彼女らとは全く接触したことが、どころか目撃したことすらなかったのです。でも、なんとなく「ふぁーん」な状態になっていたのです。自然と、いずみの発想はどんどん「それっぽく」なっていきもしました^^;; 革マル派の諸君には「あいつは青共同」などとデマ宣までされてしまったりもして...(苦笑)
 しかし、その後「国際主義」と改題した機関誌を何げで読んでみると...
 そこには、再度、脳天をかち割られんばかりの衝撃を受ける内容が掲載されていたのです...



青共同2月総会に向けた提案骨子
「政治サークル」化
三里塚現闘体制の撤退の決定に向けた決議草案

1987.1.11 伊藤義正

1)我々の潮流の、党−青年同盟という組織関係を再編し、革命路線形成に向けた任務を「政治サークル」として遂行する組織活動の方針決定を3大会で実現することを目標に、2月総会で以下の方針を確認する。

2)「政治サークル」的任務の過程で次の内容を実現する。
  1. 共産主義の目的意識性、階級形成−党・全人民的政治、世界革命に対するスターリン主義の歪曲、及びその突破を目指した新左翼の限界の克服を実現する共産主義的武装
  2. <1>時代規定、現代社会の規定<2>各国革命戦略(労働者国家、帝国主義本国、植民地・従属国)の確立(スタ−ブハ綱領、『過渡的綱領』の批判的克服)、<3>国際革命組織建設の方針(綱領的結集軸から組織体制に至る)
     一九一七年以降、労働者国家の一を組み込んで確立することが追求された世界革命論は、いずれも体制間矛盾論的な限界をもつものであった。即ち、労働者国家の国際革命運動における位置の明確化の追求が、他方での帝国主義の侵略・市場争奪−再分割戦の位置をあいまいにし、ファシズム・人民戦線への階級的批判に失敗した。労働者国家の位置・労働者国家変革の展望を含め、帝国主義の侵略・排外主義と根底的に対決できる世界革命路線の確立こそが、現代社会の危機の深化の只なかで、焦眉のものとして求められている。
  3. その実現のための共産主義的総括と、我々の潮流総括

※旧青共同−現「国際主義」編集会議(IEG)は、現在に至るもこの面−「労働者国家に対する規定」を非常に重視しているようです(→こちら)。実は旧青共同は、「ベルリンの壁」が崩れるはるか前から、機関誌で「ソ連や中国は必ずブルジョア的崩壊に向かうだろう」と「予言」していたわけで、いずみ的には「なのになぜ、そこにこだわりつづけるのか?」が、理論上重要であることはわかりつつもなお、感覚としてはつかみにくくはあります。世代差ってのもあるのかしら...。いずみには、いわゆる「ソ中への幻想」みたいなものってないですしね...^^;;。

 以上の実現によって、全人民的政治暴露を組織する革命組織建設の条件を獲得する。開始すべき革命組織路線の国際−国内の関係の解明も、その路線確立の任務に含まれる。

3)我々が経済主義的限界を残した6大会路線下で形成した従来の政治闘争の連続的延長上には共産主義的政治を実現することはできない。これまでの政治闘争の経験をも通じ、「過渡的任務」下で基本的観点を獲得した全人民的政治闘争論−共産主義の目的意識性の理解に立脚し、革命路線での武装をもって、共産主義的政治を建設することだけが、政治闘争をめぐる現下の混迷を根本的に解決できる道である。
 青共同2大会以降、特に84年以降、一方での労働情報系の後退に示される政治闘争の後退と、他方での革命路線形成の任務に対する認識の拡大に規定され、我々は諸政治闘争からの後退を行ってきた。
 その中で、三里塚闘争のみは、現地実力闘争体制−現闘体制を形式上維持する体制をとってきた。
 しかし、このような位置で現闘体制をとってきたために、それは一方で、三里塚現闘体制が本来果たすべき任務を担えないものとなっており、他方で、それ故に、革命路線形成の任務と整合性をもつことができないものとなっている。
 そのため、三里塚現闘体制を撤退し、3大会の準備、及び、3大会以降の革命路線形成の任務を遂行することが必要である。

4)3大会で以上の任務を決定するために、3大会の組織化を中心的な任務とする大会組織委員会を選出する。

※この「3大会」は、実際にはこれより4年も後、91年に行われています。いずみはこの頃は共産主義からはまったく遠ざかっていたため事情を把握してはいませんが、機関誌の紹介を見る限りでは、これ、「えらいひと」の提案が敗退し、でも「えらいひと」は今でも「えらいひと」という、一見「異様な事態」にもなっていたようです...やっぱりこのひとたちは、他の諸党派に比して「かなりヘン」ですよね^^;;


提案理由骨子

1. 革命路線確立に向けた「政治サークル」的任務の推進のために

 60年代末闘争は、スターリン主義による自然発生性への屈伏・民族主義に抗して、共産主義の目的意識性−世界革命の思想で武装した国際的な革命路線−国際革命勢力の成長を要請していたが、新左翼は、スターリン主義と対決すべきこうした領域についての自覚を獲得しつつも、目的意識性の追求における主体性論へのよりかかりと、体制間矛盾論的な世界革命論を払拭し切れずに、この課題に応えられず敗退した。

※「体制間矛盾論」は、帝国主義陣営と社会主義陣営の間に「特別な」対立関係が存在する論を言うようです。
 我々の潮流は、新左翼に対して、主体性論の誤りなどいくらかの点で批判をなしえたが、総じて、経済闘争=階級意識の源泉論と、新左翼の誤った世界革命路線に対して自国に関心を集中する思想を対置することによって、国際的な革命路線の確立を切迫した課題と位置づけられず、革命路線の形成を、運動の発展・組織の成長に委ねる路線に陥った。
 その結果、既存思想に対する全般的な革命路線形成の集中した任務(潮流形成の端緒期に必要な「政治サークル」的任務)を自覚的におこなうことなく、潮流形成を開始している。
 75年の6大会路線は、旧路線の限界の核心を、政治闘争の実践の検証の欠落と捉え、政治闘争の実践的・戦闘的な推進(新左翼の政治闘争の継承・発展)によって突破を目指す方針を選択した。6大会路線は、政治方針のいくつかの重要な領域において、既存左翼=経済主義諸潮流との分岐を鮮明にした。

※「既存左翼」は旧青共同用語で、「現在日本に存在する、社共以外のすべての左翼」を指しています。「既成左翼」=社共とは違いますのでご注意。

※旧青共同の形成過程については、彼ら/彼女ら自身による文章があります。
 6大会路線は、経済主義−社会排外主義への融和的思想を、帝国主義本国において、ブルジョアジーの立場を表現するものであると正確に規定し、それらの思想・路線との分岐が不可欠であることを鮮明にしたが、しかし、その立場と対立する理論=協会フラクション・旧共研以来の、経済闘争=階級闘争の源泉論(即ち、自然発生的な反政府・反資本の意識をある程度、プロレタリア的なものとみなす思想)を不問に付して温存することによって、路線内部に相互に排除しあう要素をかかえこんだ。
 その結果、6大会路線が形成した政治闘争への積極性は、共産主義全般の獲得にむけた積極性を形成できない限界をもっていた。しかも、世界革命路線への消極的な思想によって、獲得すべき共産主義思想の積極的な緊要の意義を提起できなかったことは、それと照応している。

※旧青共同は、他党派批判を一貫して「冷静に」行っている印象が強いのですが(そして、そこがいずみ的には「好感が持てる」ところだったのですが)、「感情入りまくり」な唯一の例外は、直接の分裂相手である旧戦線派(→連帯派→93年頃消滅)です(笑)。戦線派に対してだけは、もうかなりボロクソ書いてます(笑)。

 青共同2大会路線−「過渡的任務」は、こうした矛盾の組織上への現象形態である「党なき青年同盟」「革命路線−党の確立なき政治闘争」の矛盾の克服を課題とした。しかし、青共同の政治闘争が(限界はもっていたが)既存左翼の経済主義的政治と対決して形成した政治的自覚(例えば、帝国主義本国において社会排外主義と対決する潮流形成の不可欠の意義、攻勢的な実力闘争の組織の意義など)に照応する共産主義・革命路線の獲得を直面する任務の中軸にすえることができない限界をもっていた。
 2大会決議は、従来の政治闘争の継続・強化と、マルクス主義的武装とを並列に並べているが、こうした扱い方は、又、マルクス主義的武装の内容についても、既存思想と全面的に対決し克服する革命路線形成の任務と、マルクス主義の一般的学習とを渾然一体化させるものであった。
 だが、「過渡的任務」は、こうした限界はもっていたが、既存左翼のマルクス主義的解釈の誤謬と対置した唯物弁証法、唯物史観の獲得と、全人民的政治闘争論の解明などを土台に、そして、三里塚闘争での検証や6・15系政治闘争の批判・対決を通じて、革命路線形成の核心的意義についての意思統一を発展させてきた。革命路線形成の一般的な必要性の認識ではなく、70年代後半〜80年代前半にかけて、既存左翼の経済主義的政治との(限界をもちながらの)対決の追求がもった積極的意義の承認の上に、その意義を発展させ、限界を突破するものとして、国際的な革命路線形成の任務を集中的に遂行する任務を確認することは、共産主義運動の混迷を突破する現下の核心でもある。

※「6・15潮流」とは、熱田派支援諸党派や我が^^;;首都圏学生連などの新左翼系諸潮流、および日市連(日本はこれでいいのか市民連合=ベ平連の流れを汲む)やあの「行動派」までも含む、新左翼系では当時最も幅広だった安保メモリアル闘争を毎年6月に行っていた部分を指しています。どーでもいいですが、いずみ、87年にはデモ隊の最先頭の横断幕持ちをやらせていただきました^^;;

 他方、この時期、青共同は、全人民的政治暴露の体制(革命路線、不断の全面的な情勢分析、全国政治新聞を中心とする情宣体制)が形成できていないために、又、政治闘争を具体的に組織する全国的な組織体制が形成できていないために、政治闘争は、ほぼ、三里塚闘争に限定して取組むという変則的な体制をとっていた。三里塚闘争以外の政治闘争は、6・15潮流系に依存して取組んでいたが、この潮流の政治闘争の排外主義・市民主義への著しい迎合・屈伏によって、6・15系での取組みを前提とすることは不可能となった。
 全人民的政治暴露の不在下での三里塚闘争の取組みは、一方で、誤った宣伝・煽動の内容を含むことが避けられず、他方でその矛盾の弥縫のため、闘争の個々の局面毎への膨大な力量の投入が求められた。誤った内容とは、例えば、主観的意図にかかわらず、個別主義的意識を煽ってしまうこと(我々が政治闘争の組織化と関連づけて三里塚闘争を提起することができないため)、及び、より根本的には、革命路線を直接獲得させることができないことである。そして、その弥縫とは、こうした状態が生み出す矛盾を緩和するために、−例えば、個別主義への多大な傾斜を食い止めながら、尚、個別闘争への積極性を促すための、闘争毎の“綱渡り”的な(系統的蓄積にあまり結びつかない)行動提起・意思統一・宣伝の作業などである。

※実際、旧青共同は愛知から生まれ愛知に基盤のあった党派なので、三里塚へのかかわりでは必要以上に膨大な消耗があったんじゃないでしょうか^^;;;

 以上の条件を踏まえて、国際革命路線形成に向けた任務の集中が必要であり、政治闘争へのかかわりの現在の変則的な体制の整理が不可欠である。その整理は、三里塚闘争からの後退という著しく否定的な内容を持つことが避けられないが、この否定的な行動を避けるために、現在の内容・体制で、三里塚現地闘争体制・実力闘争体制を維持しようとすることは、矛盾の先送り以上の意味をもつことはできない。それは、三里塚闘争に対してすら、進むべき方向・展望の理解に混乱をもたらすことによって、マイナスの役割を果たすものである。
 こうした理由で、先の提案の2)、3)を早急に実現することが必要である。

 「政治サークル化」、−即ち、革命路線形成への任務の集中は、政治行動など実践活動からの乖離が拡大する。「政治サークル」化に反対する論拠の重要な点がここにあると考えられるし、共産主義研究会は、6大会路線において、この点を著しく警戒した。
 確かに、政治闘争からの後退は、実践活動からの乖離、いわゆる「サロン化」を生む可能性をもつ。
 それを防ぎ、「政治サークル」的な活動を、党建設の開始に向けた意味あるものとする根本的な保証は、共産主義の目的意識性−全人民的政治の立場への自覚的な立脚である。
 全人民的政治の立場は、階級意識・階級的立場の条件として社会の全ての諸関係への階級的評価を要求する。評価がなしえない領域の存在は、その点について、(中立なのではなく)ブルジョアイデオロギー・ブルジョア的階級性への屈伏であり、そうした領域を持つ思想は、全体の立場としても、ブルジョアイデオロギーの枠内にあることを明確にする。即ち、全人民的政治の立場は、“部分的な階級性”なるものを承認しない。
 それ故、我々が、革命路線形成に当面の課題を絞り、社会の全領域への階級的評価(ブルジョアイデオロギーへの批判)とそれが必然的に要求する実践活動(全人民的政治暴露の組織、政治闘争の組織)をなしえないことは、即ち、多くの領域でブルジョアイデオロギーに屈伏していることを意味している。そして、そのことは、我々が、階級的立場に立ちえていないことを意味するものでもある。
 だが、革命路線での武装なき実践活動も、又、部分的なものであり、ブルジョアイデオロギーへの屈伏である。そして、経済主議的政治−大同団結主義的な実践活動をおこなっている既存左翼諸潮流は、この意味で部分的であり、ブルジョアイデオロギーへの屈伏をおこなっている。

※この論文全体からも読み取れるとーり、自己の認識をどう変革するのか、という面を、旧青共同は著しく重視していました。この部分に、いずみは最も共感を覚えていたのかも知れません。当時は。^^;;
 前衛不在−革命路線とそれに立脚して全人民的政治暴露を組織し政治行動を組織する革命党未確立の段階では、直ちに階級的立場を獲得することはできない。そこで獲得できる階級性は、部分的なものであり、それゆえ、階級性(プロレタリアイデオロギー)そのものではなく、その「萌芽」である。だからこそ、より一層、階級意識の厳密な意味を認識し、それに対して、現在の(これまでの、そして、「政治サークル」的活動の時代の)部分性に対する厳密な自覚を常に明確にすることが不可欠の位置を占める。
 その核心は、共産主義的目的意識性の理解にあり、革命路線・全人民的政治・革命党建設の意義についての理解にある。この中で、我々が、とりわけ「全人民的政治」について強調するのは、それが、理論活動と実践活動の結びめに位置していること、及び、この点をめぐる既存左翼の混乱が最も著しいという二つの理由によるものである。
 経済主義諸党派が、どれ程、この点をあいまいにして、部分的な「階級性」を手放しで賛美しているのかは、この間、繰り返し明らかにしてきたところである。経済主義は、部分的な反政府・反資本の意識を階級的に発展する意識と評価する。そのため、経済主義思想の土台の中で、路線形成の作業に入ると、不回避的に、政治闘争と切断された「サロン化」が進行する。その典型例は、社民左派のイデオローグの活動に見ることができる。

※これは自分たちの出自に近い部分である人力派に対する揶揄ですよね:-)
 前衛不在下では、いずれにせよ、プロレタリアートは、ブルジョアイデオロギーの支配的影響下からしか出発できない。即ち、部分的なもの−階級制の萌芽からしか出発できない。
 したがって、必要なことは、どのような部分性から出発することによって、プロレタリアイデオロギーの獲得に到達できるのか、現在まとまっているブルジョア性の性格がどのようなものであるのかを自覚することによって、「政治サークル」段階の階級性について、いささかも、あいまいな、自己正当化をおこなわないことである。
 これは、決して、道義的な観点からおこなわれてはならず、そのようなものは、何の意味ももたない。この自己規定は、全人民的政治の厳密な理解を中心とする共産主義的目的意識性の観点からだけ可能になるものである。
 「政治サークル」的な活動から、革命党建設・政治闘争への取組みは、それ故、全人民的政治暴露の組織化を指標として、それに接近する宣伝活動への発展を一定の段階から実現してゆく過程を通じて実現されるものである。
 「政治サークル」的な革命路線形成の任務を、実践活動から切断したものへと堕さないためにこそ、その任務の推進に向けた全組織的な思想統一に基づく、目的意識性・集中的な取組みが必要である。

2. 政治闘争からの後退について

 我々は、75年6大会以降、政治闘争の実践的検証を通じた革命派形成を追求する立場から、三里塚闘争・反原発闘争を始めとする政治闘争を、国際主義で武装された実力闘争の推進として取組んだ。それは既存左翼が経済主義的政治を著しく深めていたために、戦闘的位置を占めるものであったが、しかし他方で、「党なき政治闘争」という矛盾を拡大するものでもあった。
 我々は、この克服を課題とした83年青共同2大会以降、政治闘争全般からの後退が避けられない状態に追いやられ、現在、三里塚闘争をお殆ど唯一、取組んでいる状況にある。
 我々の政治闘争へのこうした関わりは、政治闘争をめぐる国際共産主義運動の中で把握されなければならない。

※三里塚の他には、反原発闘争を大変重視していた旧青共同。中でも、新潟の柏崎では、現地反対派と三里塚反対同盟との交流を促すなど、かなり積極的にかかわっていたようです。

 全人民的政治暴露に基礎づけられた全人民的政治闘争は、プロレタリアートの階級意識の不可欠の源泉である。
 マルクス主義に対する、−即ち、プロレタリアートの階級的立場に対する一切の歪曲と政治的攻撃を大目に見ない思想闘争・政治闘争の立場なしには、プロレタリアートの階級意識の成長はありえない。従って、党内思想闘争を・党派闘争を含むあらゆる理論闘争、あらゆる階級・階層への攻撃に対する階級的評価に立脚した実践的反撃(全人民的政治闘争)は、共産主義の目的意識性の不可分一体の要素をなしている。
 それに対して、経済闘争に於ける労資対立を階級意識の源泉と捉える経済主義、−及び、その理論を土台とする政治闘争=経済主義的政治の立場は、経済闘争に於ける労資対立を階級性の根拠・保証と見なすことができるために、その政治闘争は、全人民的政治暴露の意義を後景化させた大同団結主義的なものとなり思想闘争とは結びつかない自然発生的な反政府闘争に止まるものとなる。経済主義的政治は、実証主義的=部分的な反政府・半資本の意識を肯定・賛美し、その変革の不可欠性を理解しないために、階級意識への労働者大衆の変革に敵対する。自然発生性に基づく政治闘争と全人民的政治闘争とは、実践上、補完しあうのではなく、しばしば、対立するが、その際に、経済主義的政治の立場は、自然発生性の側に引きずられ屈伏することが避けられない。
 マルクス・エンゲルスは、政治闘争に対するこうした立場を確立し、レーニンは、その諸特徴を『なにをなすべきか』によって詳細に展開した。『なにをなすべきか』の経済主義批判に立脚した党建設−全人民的政治は、ロシア革命の勝利を実現した。
 しかし、全人民的政治の立場は、スターリン派によって、早くから解体された。戦後に入ると、この傾向は深化し、平和運動や経済的要求のための意識が、即、階級意識として評価されるに至った。こうした経済主義意識は、帝国主義本国で、特にその排外主義的性格・反動性を鮮明にする。
 日本では、六全協以降の日共がこの立場を露骨なものとし、平和運動・諸要求闘争を掲げ、戦闘的大衆闘争に敵対した。
 新左翼諸党派、特に共産同(ブント)は、こうした日共−スターリン派の反動的統制を突破する政治闘争の革命的展開を追求した。
 新左翼は、プロレタリアートの階級意識形成に於いて、即自意識の自覚的変革・否定、世界革命戦略での武装、国家権力との実力対決が重要な位置を占めることを認識し、その実現を追求した。
 革共同は、経済闘争を階級意識の源泉とする点では、むしろスターリン派以上に徹底していたが、スターリン主義と対決する世界革命戦略と主体性論的立場からの「自己変革」を主観的には追求した。
 それに対して、共産同は、労働運動−職場での党組織建設に「階級闘争」の主軸を置く伝統的な経済主義的階級形成論に対して、労働者大衆が政治闘争を通じて革命戦略で直接武装することを課題とする階級形成論に接近した。
 しかし、共産同を筆頭とする新左翼諸党派は、世界革命論の体制間矛盾論的な誤謬、即自意識の否定・変革を主体性論に依存して誤った内容で追求したこと、現在の時代規定の誤りを主要な要因として破産した。

※旧青共同の言う「主体性論」とは、特に革マル派創設者である黒田寛一(いずみの父親と旧制高校同級生)が唱えた「反スタ主体性論」を指しているようです。これは、プロレタリアートの階級意識の形成には、即自的な意識のままでなく、プロレタリアイデオロギーを我がものとするための「主体的立場」が必要である、というものです。
 その後、新左翼系の政治闘争は、70年代に入って、諸個別大衆闘争に、受動的に、革命路線をめぐる思想闘争抜きに追随する方針へと転換した。
 反入管、狭山、三里塚闘争など戦闘的な課題別戦線への受動的なぶらさがりや、労働運動への依存がそれである。
 この転換は、新左翼運動に対する、転倒した総括に基づいてなされた。即ち、新左翼は思想闘争・党派闘争を過度に行ったから破産した、既成左翼=社共を最後通牒的に切り捨てすぎたから破産した、大衆に学ぶ姿勢、具体的なものに学ぶ姿勢を軽視し、観念論に陥った、等々である。特に、共産同に対しては、意識性ばかり強調していると大衆から遊離し、連赤のような破産に至るといった捉え方、あるいは、革共同のように思想闘争・党派闘争を強調すると「革共同戦争」に行き着く他はない、という評価が、自然発生的に左翼戦線を支配した。

※「革共同戦争」は、もちろん、革共同両派=中核派と革マル派の「抗争」のことです。
 他方、この時期、部落解放同盟、三里塚反対同盟などが、前衛党不在という制約のもとでは最大限の戦闘性を発揮して政治闘争を組織し、日共など既成左翼と実践的に対決していたことによって、左翼諸潮流は、上述の誤った「総括」のもとでも、当面、これらの戦闘的大衆組織におぶさりながら、政治闘争を戦闘的に取組むことが可能であった。
 だが、新左翼運動は、“過度の思想闘争”“過度の大衆切り捨て”“過度の既成左翼の切り捨て(既成左翼の「積極面の無視」)”“具体性の軽視”によって破産したわけではない。世界革命戦略と結びつけた首尾一貫したものとして、全人民的政治の立場に立脚して、既成左翼・スターリン主義との対決を貫徹しきれなかったところに、総括の核心をもとめなければならない。
 70年代に横行した上述の総括は、新左翼が日共・スターリン主義と対決して追求した課題の清算を意味するものに他ならなかった。
 70年代の左翼潮流による上述の新左翼総括の傾向は、誤った革命路線の体系、誤った世界各名論、誤った観念に対して、階級的な革命路線の体系的認識を対置しようとはせず、実証主義的・個別的な経験主義を「対置」するものでしかなかった。
 こうした路線が、労働者大衆の認識を狭め、政治闘争の後退をもたらすことは避けられない。
 我々が75〜76年から政治闘争への積極的取組みを開始するとき、既存左翼の政治闘争は、こうした状況にあった。
 我々は、実質上の結成大会である75年6大会、76年3中委において、政治闘争の推進を重視するが、それは、新左翼の政治闘争の継承・発展と、その実践的検証を通じて我々の潮流の骨格形成をおこなうことを意図したものであった。
 その際、我々は、左翼戦線が、70年代にはいって以降、政治闘争に対して、上述の転換をおこなっていたことを、根本的な後退とは捉えずに、どちらかといえば、60年代末までの政治闘争の発展形態として“課題別戦線にまで取組みの領域を拡大した”ものとして評価しなければならない、という観点に立脚した。
 これは、6大会−6大会3中委路線における実証主義との対決の観点を提起した情勢分析−政治方針獲得の観点と矛盾するものであった。しかし、我々は、70年代後半の階級情勢を積極的に評価することによって、日韓・三里塚をはじめとする政治闘争への取組みを開始した。この時期、我々は、既存左翼が、政治闘争論における目的意識性、政治闘争の戦闘性を基本的には保持していると捉えたために、既存左翼に対しては、その帝国主義認識の誤謬、及び、三里塚闘争をめぐる攻防を政治闘争の機軸に位置させられない誤謬への批判を重視した。
 しかし、いずれにせよ、70年代の政治闘争に対する先の誤った評価は、次の意味をもつものであった。
 それは、我々が、6大会当時、組織的結集軸も、又、全国政治闘争のための全国的な組織体制も確立していないにもかかわらず、戦闘的左翼の闘争陣形の一翼として、その共闘陣形に依存して戦うことが可能であり、又、そのことが求められているという認識を促したことである。
 こうした理解は、我々の経済主義批判・経済主義的政治批判の不十分性・未確立がもたらしたものであるが、それが導いた政治闘争の実践−共闘陣形に依存した実践は、我々の闘いを当然にも制約するものとなった。
 我々は、70年代後半において、既存左翼の経済主義的政治と対決するために、
  1. 単独・共闘を含め、重要な課題への政治闘争の組織化
  2. 三里塚、狭山闘争などの共闘陣形の中で戦闘的に戦い、それと結合した独自の闘いをも組織すること、その戦闘化の方針をもって、これらの戦線に臨むこと
−こうした点を不断に追求した。我々は、三里塚闘争、反原発闘争においては、実力闘争を戦闘で闘うことを機軸にすえて、闘いの思想的発展・戦闘的展開を追求した。
 我々は、70年代後半では、単独の全国政治闘争の組織化をも通じて、又、三里塚闘争、反原発闘争などにおいては、独自の実力闘争の組織化や、戦闘的共闘陣形の形成をも通じて、−既存の経済主義的政治と対決する実践を追求してきたが、にもかかわらず、根本的な点では共闘陣形に依存した闘いは、80年代に入り、70年代型政治闘争の根本限界が露呈し(三里塚現地実力闘争の後退、既成左翼へのすりより、反米主義への迎合の深化、市民主義への迎合など)、政治闘争全体の衰退が進行する段になって、それと対決し、政治情勢を変革する闘いを組織化することができない限界にぶつかることになった。
 80年代に進行した事態は、78年三里塚開港阻止決戦以降の、既存左翼の三里塚実力闘争からの後退であり、反原発現地闘争からの召喚、(反核闘争で頂点に達した)反米主義・市民主義への迎合・屈伏である。そして、これらの結果として、政治闘争の戦闘性の後退のみならず、大衆性の衰退も必然的に進行した。

※この「反核闘争」とは、82年に社共主導で大高揚した運動を指します。確かに当時、中核派や戦旗日向派(現「ブント」)はこれを全面的に賛美していました。
 我々の戦いが、権力に対する攻勢的・自覚的戦い、そのための思想闘争・意識変革の重視、自国帝国主義の他民族抑圧をあいまいにせず、日共・市民主義者の反米主義的政治闘争への批判をあいまいにしないプロレタリア国際主義を志向する政治闘争という点で、70年代以降に進行した新左翼運動の右翼的清算に対する戦闘的対置であったこと、そのため、三里塚・反原発闘争の戦闘的高揚に寄与しえたことは明らかである。
 又、帝国主義的世界認識、ファシズム・人民戦線への批判−帝国主義本国での排外主義批判の観点、全人民的政治闘争論の一定の領域など、我々は、新左翼を越える点(例えば、共産同の中央権力闘争論の先進的意義とその限界の解明−共産同の政治闘争論の限界と、第二次ブントの党組織の弱さとの真の相互関係、などの明確化等)も部分的に獲得していた。
 しかし、他方、その意識変革は、共産主義的な革命路線の全体的獲得に向かわず、国際主義の追求は、世界革命路線の自覚−真の全人民的政治意識・真の国際主義に向かわない限界を伴っていた。
 又、我々は、課題別戦線への既存左翼の受動的ぶらさがりを最も系統だって批判し、それを克服する実践を、三里塚闘争・反原発闘争などで追求したが、しかし、我々が、根本的には共闘陣形におぶさって政治闘争を推進している限りで、それは、限界を伴うものである。次の項で触れる三里塚3・8分裂に対する我々の限界も、こうした点に関係している。
 我々は、全人民的政治闘争推進のための体制の未確立を、共闘体制への依存と「三里塚中軸論」とで補完する形をとりながら三里塚実力闘争を推進・追求することによって、及び、ほぼ同様の構造で、日帝の侵略・反動攻撃に対する一定の戦いと、特に反原発闘争を推進することによって、労戦主戦場論に立脚した既存左翼の政治闘争・三里塚闘争が、待機主義的・大同団結主義的なものであり、労働者人民の戦闘性を成長させられないばかりか、飛行阻止闘争への敵対など、重要な局面で、反動的統制の側にまわるものですらあることを暴き出した(大衆闘争への反動的統制は、スターリン主義の一大特徴であるが、それは、経済主義的政治の帰結でもある).そして、経済主義的政治との対決、全人民的政治の追求に向けた闘いが、実際に、労働者大衆の戦闘性を引きだし、成長させるものであることを示し、三里塚闘争・反原発闘争の高揚に向けた重要な寄与を行うことができた。我々の闘いは、こうした点についての大衆的自覚を促すことを通じて、既存左翼を克服する政治闘争構築の必要、その可能性を、政治方針・政治闘争の一部の領域という限定された条件の下ではあれ指し示した。
 しかし、既存左翼の一層の経済主義化や、共闘陣形による実力闘争体制の後退、そして、我々自身の、旧路線の限界の自覚などによって、旧来の政治闘争の延長上に、革命潮流の建設・全人民的政治の構築を実現することが不可能であることが明らかになっている。共闘陣形の崩壊は、我々が、全国政治闘争・大衆的実力闘争の体制確立に至っていない段階にあることを明白なものとしたが、このことは、我々の宣伝・煽動において、常に、大衆に対し、この我々の到達段階をあいまいさなく認識させる内容での提起が不可欠であることを意味している。何故なら、革命派の発展段階、革命派が占める政治的・組織的位置に対する自覚的認識に立脚して政治闘争・実力闘争を推進する意識だけが、労働者大衆の階級的成長を可能とするものだからである(革命派の到達段階=革命路線・革命組織の成長の段階を、階級形成の到達段階の機軸的なものとして理解しない思想は、階級的なものではない)。
 我々が、70年代後半から80年代前半にかけて、労働者大衆に対し、全国政治闘争・大衆的実力闘争への決起を呼びかけながら、それを推進する体制を現在に至るまで形成できていない現実は、痛苦な否定的事態であり、労働者大衆に対して、自己批判的に明らかにしなければならない内容である。
 しかし、我々は、その根拠−経済主義的政治批判の不完全さ、全人民的政治論の限界を、「過渡的任務」の過程で明らかにしてきた。
 この点が明らかになった以上、我々の宣伝・煽動は、我々のこうした思想的・組織的到達段階を明確にしながら、その克服の課題を労働者大衆に対しても鮮明に提起しつつおこなわれるものでなければならない。
 我々が、全人民的政治暴露の体制、実力闘争を推進する体制の到達段階をあいまいにして、実力闘争への決起を呼びかけてきた段階から、その到達段階を明確にした宣伝へと転換することと、従来の闘争体制(三里塚現闘体制を含む)から三里塚現闘体制を置かない体制へと転換することは、政治的位置においては、同一線上のものである。

3. 三里塚闘争・現闘体制の撤退をめぐって

 国際革命路線の形成にむけた任務の集中なしには、共産主義運動の発展がありえないことは明らかである。こうした任務にとって、三里塚闘争、三里塚現闘体制に対する方針が、現下の最大の論点を形成している。
 この点について、基本的な考え方は、次のものである。
 旧来の誤った路線の下に形成された諸関係については、それが現在存在するという事情からだけそれを引きずることは正しいものではなく、その総括・根拠を労働者大衆に対して明確にして、必要な後退を行うべきだということである。いうまでもなく、当初から取組んでいないことと、撤退することとは、運動に与える否定的な影響は同じではない。その影響への評価をもあいまいにすることなく、しかし、尚、撤退が必要な場合には、なし崩しではなく、その克服の展望を明らかにすることを含めて、後退を選択しなければならない。
 三里塚現闘体制をもっての三里塚闘争への取組みは、三里塚闘争を自らの課題として取組むための不可欠の条件であり、特に、(1)反対同盟と連帯し、不断に思想統一を深めながら三里塚闘争を推進すること、(2)現地実力闘争体制の構築、(3)それらの実現のために、三里塚闘争をめぐる諸政治関係を不断に把握するために不可欠である。
 (1)の思想統一すべき内容は、三里塚闘争の具体的方針・戦術に至る革命路線・政治闘争方針全般の思想統一である。従ってそれは、(2)の内容−現地実力闘争を中軸とする具体的な闘争組織化の任務を欠くことができない。

※「三里塚現闘体制」は、三里塚現地に現地闘争の専従部隊を常駐させて日々闘う体制のことです。もちろん、これを維持するためには多大なる力量を要します。
 ちなみに、現闘として闘う人間は、格段の「強さ」を求められます。なにせ、現地の機動隊は現闘を「人間扱い」しません。免許証を恣意的に提出させ、そこにマジックで「死ね」と落書きするなど、糾弾する気すら失せてしまいそーな無法行為がまかり通っているのが、三里塚現地です。
 逆にいえば、三里塚現闘体制は、(1)、(2)の立場を明確にして反対同盟、現地支援と不断に交流することが求められるため、これらの方針なしには三里塚現闘を含む組織的意思統一を維持してゆくことは非常に難しく、それをおこなうためには、現段階では、蓄積に結びつかない多大な組織力量の投入が必要となる。
 これらのことは、政治闘争、三里塚闘争の取組みにおいて、前述の矛盾を露呈した我々が、現在要求されている任務に照応するものではなく、又、実力闘争体制なしに三里塚現闘体制を維持することは、同盟や支援に、三里塚闘争の現状と、任務の核心についての誤った幻想を与えるものですらある。

 我々は、三里塚闘争に対して、70年代後半、開港阻止決戦を中心に、全国政治闘争の頂点に立った三里塚闘争を、労働者人民が、自己の階級的任務として闘うことが、プロレタリアートの階級的成長の核心であると捉え、現地実力闘争の発展を任務の中軸に位置させた。
 三里塚闘争の勝利は、反対同盟を戦闘とする全国の労働者大衆の政治的成長を基礎としてだけ実現できること、そして、全国の労働者大衆の成長は、三里塚闘争を政治闘争の焦点として捉え、実力闘争によって勝利を勝ちとる闘いを除いてはありえないこと−これが、77年から三里塚闘争にかかわってきた我々の位置づけである。
 そして、我々は、76〜77年の過程で、既存左翼諸潮流の帝国主義認識と全人民的政治闘争論の著しい誤りに由来するプロレタリア国際主義の後退と対決してきたが、国際主義の真の実現は自国帝国主義との非妥協的対決を除いてありえないことを重視し、三里塚闘争を、国際主義と実力闘争の立場で戦うことによって、帝国主義本国階級闘争におけるプロレタリアートの階級的武装を追求した。

 78・3・26管制塔占拠闘争は、実力闘争の巨大な勝利であったとはいえ、それは、露骨な経済主義に裏づけられたものであり、その思想からの宣伝がおこなわれたために、開港強行後の三里塚闘争後退の条件をも拡大するものであった。

※旧青共同の、三里塚現地実力闘争での「戦歴」としては、78年5・20第5ゲート進撃戦、同年7・2第9ゲート突撃戦が挙げられます。といいつつ、当時は青共同ですらなく「青年闘争委員会」ですが^^;;。特に後者は、トラックで突っ込むレベルの激しいものだったようです。しかし、これらによりほとんどの活動家が逮捕され、一時期、旧青闘委は活動停止に追い込まれたようです。
 よく考えたら、このレベルの弱小党派^^;;が、組織結成後はじめての大きな実力闘争で、いきなりそんな大胆なコトをやってしまう、というのも、それまでの「社民としての負の歴史」への禊みたいな気もするですねぇ...^^;;
 60年代末闘争の高揚の突破口になった67年10・8闘争を闘った旧三派を中心とする新左翼諸党派は、その闘いの位置を、スターリン主義・既成左翼への根本的批判を志向する帝国主義本国労働者人民の意識変革の意義、国際主義、実力闘争の観点を鮮明にするものとして提起する追求をおこなった。それに対して、3・26闘争は逆に、第四インターによって、“国鉄の違法ストと変わるものではない”という言訳、既成左翼との同質性が強調され、「連帯する会」系総体として、没階級的・非科学的な“「大義」に立つ闘い”という宣伝が展開された。そのことによって、3・26闘争は、それが全国の労働者大衆に生みだした実力闘争への共感を、階級的意識変革に結びつける条件を自ら抹殺した。
 その結果、開港既成事実化との闘いすら、大半の左翼党派が消極的に対応し、それどころか敵対し、三里塚闘争の政治闘争としての位置、実力闘争発展の条件を後退させた。
 3・26に現れた既存左翼の思想状況は、直ちに、−あるいは、少なくとも、二期攻撃の以前に克服されることが必要であった。そうでないならば、“3・26のあれ程の実力闘争の勝利によっても、それ以降の後退が避けられなかった”という敗北意識を拡大することが避けられないからである。

※既成事実化粉砕闘争を主軸で担ったのはプロ青(現グローカル)で、他に労調委(「空港開港阻止首都圏労働者行動調整委員会」:赤色戦線・前衛派・竹内ブント・主体と変革)や青闘委などです。第4インターは「全国に第2、第3の三里塚を!」として総評内分派闘争に召喚し、中核はそもそもこの時期は三里塚に全力を注いでいませんでした(もちろん、中核が強い影響力を持つ動労千葉(現千葉動労)の、三里塚闘争へのかかわりそのものは一定評価されなければならないでしょうが)。
 そして、実際、3・26闘争の上述の思想と、その後の、既存左翼諸潮流の待機主義が醸成した敗北感は、78〜79年の島・柳「話し合い」問題、石橋・内田問題などとして現れ、それは三里塚闘争の分裂という否定的事態にまで至った。
 我々は、この点を、3・26直後から強調し、その克服を、既存左翼の上述の限界をうみだした思想的基礎である経済主義的政治の批判(労働運動に三里塚闘争の展望を委ねる労戦主戦場論、−労働運動のための“旗振り役”としての三里塚闘争・反対同盟という捉えかた、「大義」としての三里塚闘争論、力学主義的な実力闘争論などへの批判)を通じた全人民的政治闘争論からの三里塚闘争の把握の追求と、開港既成事実化粉砕闘争の組織化の追求とを結びつけて、三里塚闘争の変革・深化を追求した。
 又、三里塚闘争の83年3・8分裂後は、それを発展と捉える既存左翼諸党派に抗して、その分裂の否定的意味を提起し、その根拠の解明(敗北主義を拡大した根拠の批判)と、その克服を、両派−特に、熱田派の自己変革を媒介とした発展的な再団結として提起してきた。

※旧青共同の「3・8」(反対同盟分裂)に対する見解の詳細については、おいおい、このサイト内で掲載する予定です。
 しかし、二期攻撃に直面した現在、我々は、当初設定した任務に敗北したことを認めなければならない。
 それは、何よりも、我々が、実力闘争を闘う体制を青共同としてつくりだせなかったことであり、二期阻止に向けて、開港阻止決戦−3・26闘争前後の思想状況を越える三里塚闘争全体の体制を形成できなかったことにある。
 「政治方針」での思想統一に立脚した大衆的共闘陣形(大学間共闘など)で実力闘争を闘いつつ、我々の独自の実力闘争をその中で構築することで、実力闘争の発展を目指した6大会以降−特に開港阻止決戦以来の方針は、実現できなかった(我々の実力闘争体制の破綻は、81年ジェット闘争の際に、既に露呈していた)。
 又、方針上では、我々が、3・8分裂とそれ以降の三里塚情勢に対して、鮮明な方針を提起しきれなかったことの中に現れているといわなければならない。
 我々は、青共同2大会と同時期の3・8分裂以降、それをめぐる政治関係を、既存左翼のどの党派よりも明確に提起する追求をおこなってきた。しかし、熱田派の変革−再団結という方針にもかかわらず、それは、熱田派・北原派双方への具体的評価においてあいまいさを含むものであった。
 これは、二つの原因をもっている。
 一つは、3・8分裂に至る過程での、三里塚闘争における我々の日和見主義との闘いが、不十分性を残していたことによるものである。80年に飛行阻止闘争の後退と結びついて、用地内同盟とそれ以外の同盟とを同一視する誤った思想が台頭した際に、我々は、それへの批判的立場を提出し、又、石橋・内田問題に際して、中核批判にのみ熱中して、「日和見主義に寛容であること」を説く「連帯する会」主流派との論争を行ってきたが、しかし、それは、決定的な不十分性をもつものであった。そのため、日和見主義に対する系統的な闘いと大衆的な蓄積とを結びつけて、3・8分裂に至る事態に対応することができていない。

※「連帯する会」とは、「三里塚闘争に連帯する会」のことで、74年に反対同盟戸村委員長が参議院全国区に立候補した際の支援党派が集まって結成されたもので、当初は中核派や解放派も含めた大組織でした。78年当時はいわゆる「赤ヘル3派」=第4インター・プロ青・戦旗日向派のみの構成で、その後旧青闘委・赫旗派・フロントなどが加入しています。しかし旧青共同は、84年に同会を脱退しています(^^;;)
 そして、その点の根拠でもあるより根本的な点として次の点がある。83年3・8分裂の時期には、我々の全人民的政治闘争論は、未だ、核心に至っていなかった。全人民的政治闘争論の不十分性は、即ち、この点についての組織的な一致が存在しなかったことをも意味している。そのため、3・8分裂に対する評価・対応を出発点とする我々の熱田派・北原派双方に対する評価は、全人民的政治闘争論の不十分性に規定された限界をもつことが避けられなかった。概括的にいえば、我々は、当初から、熱田派の路線そのものが北原派より先進的であるとは捉えていないことを明言してきたが、しかし、客観的には、その主観的規定と合致する実践を展開しきれたとは評価できない限界を残している。
 −こうした意味を含めて、我々は、二期闘争に向けた、開港阻止決戦を越える三里塚闘争の体制構築に、現在の時点で敗北したことを承認せざるをえない。

 以上の内容を踏まえるならば、我々は、次のことを不回避的に要求されていることが確認できる。
 第一に、二期攻撃に直面し、我々が実力闘争体制を形成できていない現実を明確にしなければならないことである。
 それをあいまいにしたままの宣伝は、欺瞞であり、階級情勢に対する誤った評価を生むものである。例えば、××同志が、結集前に「大衆闘争の確立した指導部が存在する」と我々の潮流に対して誤解したことはその一例であるが、重要なことは、こうした「誤解」は、決して、我々に対する誤解という意味に止まるのではなく、階級形成の発展段階への誤った認識の拡大を意味してしまうということである。
 又、それに止まらず、我々が実力闘争の組織的保証なしに、一般的にその重要性を宣伝することは、宣伝と実践行動の乖離を容認する思想を労働者大衆に対しても、我々自身に対しても容認・拡大するものでもある。
 従って、三里塚闘争における大衆的実力闘争の意義を少しもあいまい化せずに、同時に、我々がその体制をとりえない現実を明らかにし、その克服の展望を認識する不可欠の条件を提出しなければならない。
 第二に、敗北というとき、どの点での敗北であるのかと、その根拠を明らかにすることである。
 我々が、追求した基本的な方向−既存左翼の三里塚方針との対決(力学主義的−待機主義的実力闘争、反対同盟への受動的なぶらさがり、担ぎあげによる思想統一の放棄=“反対同盟は旗振りでよい”という位置づけなど、その帰結としての、農民運動としての三里塚闘争論の賛美や、市民主義・エコロジー思想への迎合などの三里塚闘争の発展を阻害する政治路線・方針との対決など)と全人民的政治闘争としての三里塚闘争の追求といった基本的方針が誤っていたのではない。それが不十分であったこと、国際的な革命路線の首尾一貫した体系の下で提出できなかったことに、敗北の核心的な根拠があったということである。即ち、全人民的政治宣伝・煽動を組織する革命路線・革命組織の未確立に規定された日和見主義との対決の不十分性という限界である。
 そのため、我々の戦いは、いくつかの三里塚実力闘争に向けた共闘陣形を形成し、その闘いを通じて、三里塚実力闘争を積極的に担う意識、そのために、既存左翼の限界と闘う意識を生み出したが、それを革命路線へと、又、三里塚闘争の陣形へと結実させられなかった。
 この点に、我々の敗北が存在している。
 第三に、実力闘争の体制を欠落させた条件下で現闘体制をとるのか、その状況に照応するものとして現闘体制から撤退し、現闘体制未確立の段階としてのかかわりを追求するのかの選択である。三里塚闘争の観点からみても、前者が特別の積極性をもつものではない。現地闘争、現地活動の任務を担えない現闘の存在とは、どうしてもアリバイ的なものになるからである。

 以上から、(1)現情勢下での国際的な革命路線形成の核心的位置の提起、(2)三里塚闘争に対する我々の敗北とのその根拠・克服の方向−を提起し、三里塚現闘体制から撤退する方針を選択することは避けられない。

 尚、この項の最後に、次の点に振れておこう。
 政治闘争からの後退、特に、三里塚現闘体制からの撤退が、反対同盟や既存左翼諸潮流からの糾弾を受けるものであることは避けられない。現闘撤退が、前述のように、我々の党派的敗北の結果であり、それが疑いもなく、闘争に対して、否定的影響をあたえるものである以上、我々は、この糾弾の正当性を認めた上で、尚且つ、そこからしか出発できないプロレタリアートの任務を提起してゆかねばならない。
 この点を確認した上で、既存左翼諸潮流による糾弾がおそらくもつであろう特徴を把握しておく必要がある。
 それは、我々への批判が、これまで闘ってきた闘争からの撤退に対する批判として、主要になされるだろうということである。勿論、二期決戦に直面した撤退ということも批判に含まれるだろうが、これは、主要な位置は占めないはずである。何故なら、もし、こうした点からの批判であれば、現在、現闘体制をもっていない全潮流が批判の対象になるからだが、こうした批判をおこなうことが、現在の既存左翼諸潮流の経済主義思想からは不可能であることは明らかである。
 この点を指摘したのは、こうした思想状況と、60年代末闘争に至る新左翼運動の思想状況の違いを現しているからであり、経済主義をめぐる共産主義運動の歴史的な変化を示すものでもあるからである。
 新左翼運動は、それまで闘っていたかどうかということではなく、情勢が要請する闘いを担わない勢力については、正当にも、全て批判・糾弾の対象としていた。
 それに対して、70年代〜80年代前半の思想状況は、“それぞれが持場で頑張る”ことを賛美するものであり、それ故、それまでの戦いを担っている限りは、まず批判の対象とはならない状況が続いている。
 しかし、我々は、6大会路線当時から、こうした思想状況に対しては、批判的に捉え、それ故、政治闘争のあらゆる局面に対する評価と取組みとを追求した。それは、我々の組織体制に規定されて限界をもっていたし、又、国際階級闘争を現実的射程に収めていない根本的欠陥をもっていたとはいえ、その観点自体は正当なものであった。
 従って、今回、我々が、政治闘争から撤退し、三里塚現闘体制から撤退するにあたって、我々がうけるべき批判は、単にこれまで取組んできた三里塚現闘体制からの撤退というだけに限らず、共産主義革命を掲げる我々が、要請される諸政治的任務に応えられないこと全般にまで拡大して把握しなければならないものである。−1.の最後に触れた全人民的政治の立場に立脚するならば、こうした認識に到達しなければならない。
 従って、こうした観点に立つならば、本来であれば、80年頃からの、ほぼ、三里塚闘争・反原発闘争を中心にしか政治闘争に取組めなくなった事態は、そのものが、批判・糾弾の対象でなければならなかったものであり、2大会以降の行動戦線の凍結、84年〜85年にかけての政治闘争からの後退が、批判・糾弾の集中を受けて当然のものであったといえるものである。
 だが、そうした批判を、公式・非公式を問わず、受けたことがないのは、周知の通りである。
 (80年代前半の政治闘争全般への取組みが後退した時期にすら、中曽根ASEAN歴訪阻止の屋内集会が、その関係の戦線のものに評価されるという情勢ではあったが)

※「行動戦線」とは「三里塚空港粉砕行動戦線」で、三里塚闘争や反原発闘争を戦った旧青闘委−青共同の大衆組織。機関誌「海風」(ぉっ、これが某にっきの正解?(^^;;;;))。もともと愛知で全共闘運動の一翼を担ったことからはじまった潮流なので、学生の組織基盤は愛知県下に一定存在していたようです。一方東京では、顕在化していたのは上智大代議員会ぐらいです(東大にも1人いたらしいんですが、学内では何もやってませんでした)。
 即ち、この点を見るだけでも、60年代末闘争に至る新左翼運動と比べて、現在の左翼運動がより経済主義を深化させていることは明らかである。
 だが、既存左翼からの批判が限定されたものに止まったとしても、我々は、より全般的に我々の限界に対する批判的立場を獲得し、その克服に向けた実践を追求する観点を確認しなければならない。

4. 最後に

 三里塚二期決戦に直面した現在に、現闘体制から撤退することは、三里塚闘争に対する重大な否定的影響を与えるものであり、我々の三里塚闘争に対する党派的敗北を意味する否定的事態に他ならない。しかし、このことを先送りにしても、どこかで、同様の事態に直面することは避けられず、その時期を遅らせることは、路線形成への任務の集中への転換を一層困難にするものであろう。
 例えば、三里塚二期決戦は極めて重要だから、それを一定の体制で取組んだ後に、路線形成の任務を仕上げる計画が立たないだろうか、と考えてみることはできる。あるいは、そのように対応したいという希望は、三里塚闘争の勝利に向けて闘ってきた同志や、ともに闘った戦闘的友人の中に強く残っているはずである。
 しかし、そうした方針は無自覚の内にであれ、二期闘争のあとに、ある程度、“平穏な”階級情勢を想定しているものであることを見落としてはならない。
 階級的激動を予測することはできないし、国際的な視野に立てば、フィリピンを例にとるまでもなく、既に、不断の階級的激動に置かれている。二期決戦に連続して階級的激動が続き、革命的攻防、あるいはそれに準ずる情勢に至らないと言い切ることは誰もできない。あるいは、より規模の小さい高揚が断続的に訪れるかも知れない。
 そして、60年代末闘争が立証したように、あるいは、それを取り出すまでもなく、ロシア革命が鮮明に示したように、革命的激動の時期には、革命路線の有無が、直ちに、労働者大衆の階級形成を重大な規模で左右する。
 レーニンが指摘したように、労働者大衆は、「革命闘争に参加してさえ」社会民主主義的政治(=共産主義的政治)を獲得できるわけではない。全人民的政治暴露の組織化抜きには、革命闘争すら、プロレタリアートに階級意識をもたらすことは不可能である。
 従って、国際的革命路線形成のための任務を遅らせることは許されない。
 我々は、前記のように、6大会路線下での三里塚闘争への取組みにおいて、より一般的には、階級闘争に対して、党派的に敗北したことを認めなければならない。
 しかし、三里塚闘争を頂点とする6大会路線下の闘いは、70年代後半から80年代前半にかけて我々青共同の政治闘争の位置を、日本階級闘争上の特別の位置におしだすことによって、既存左翼の限界との対決の意義を(部分的なものではあったが)実践的に明るみに出し、あるいは、そうした闘いが、労働者大衆の政治的積極性を実際に成長させるものであることへの政治経験を通じて、積極的な要素をも残してきた。
 その積極的要素とは、全人民的政治闘争論のより深い内容での獲得を可能にした全国政治闘争の政治経験であり、獲得すべき世界革命路線に対する示唆であり、又、「政治サークル」的な活動に向けても、先進的な労働者大衆を結集させる条件の拡大である。
 それは、「政治サークル」的活動を短期間で成果あるものとする一条件である。但し、「政治サークル」的任務への自覚的転換だけが、その条件を活かす唯一の方策である。
 世界的な階級的激突に対して、国際的な革命路線形成・確立に総力を結集すること、その任務に多くの労働者大衆の結集を呼びかけ、「政治サークル」的任務を短期間で終了させること−これが、現在もとめられている核心である。


※で、99年現在の現状を述べるならば、現IEGは未だIEG=政治サークル段階なわけです...同規模の党派がどんどん消滅している現状からすれば、生き残ってるだけでもすごいのかも知れませんけど...
 現実はかくも厳しい。





 この文章を読んだいずみが「衝撃を受けた」のは、実は「闘争からの撤退」そのものではありません。
 党派が一般に縮小過程で闘争から撤退することは多々あるでしょう(苦笑)。そして、その後退に対して、(党派としては)堂々と自己に厳しく振る舞うのも、旧青共同のそれまでの「芸風」(笑)からすれば「やってあたりまえ」のことです。
 いずみには、この文章から、「これだけ『できる』党派が、もはや、後退するしかない・収縮していくしかない状況。いや、ML主義をある程度以上まじめに貫こうとすれば、このような縮小は避けられないのではないか?」と、逆にML主義への“絶望”が直感されてしまったのですね...
 そして、「ではML主義にとらわれない、別の様式はどうか?」とゆー問いは、既に青共同によって切断されてしまっていたのです。

 実はこの18号の次の19号には、実際に決議された文章が掲載されているらしいのですが、いずみが18号を読んだのは確か87年夏、そのショックから、19号を読む気力をなくしてしまい、実際にどんな決議となったのかは知らなかったりします^^;;
 いずみはまさに、この文章によって、「短かった、共産主義者としての自己」をズタズタに引き裂かれました。もちろん、そんな単なる「直感」で引き裂かれるよーな「主義者」はニセモノである、とゆー主張も正しくはありますが^^;;、しょせんいずみはそんな程度のやつなんです(苦笑)。

 事実、これを読んだ直後の寮祭を最後に、いずみは自らの闘いを後景化させていきます。そして、それと反比例して、「障害者」への介護が増えていきます。これはつまり、対外的には自らの無力感への「弁解」としての「介護はやります」(これって、上の論文が言う“持場で頑張る”そのものなんですけどね(苦笑))、また内面的には、介護者のオルグを自らが進められない(自身が積極的になれない以上、それを相手に説得することはもっとできない!)ためにすべて自分で抱え込んでしまったことによるもので、少しも褒められたものではなかったのです。
 結局、89年5月、いずみは当時の職場の仲間に手伝ってもらい、某アジト(ってほどでもなかったんですが^^;;)からの夜逃げを決行。細々とかかわってきた全戦線から逃亡・脱落することになります...

 しかし今、「趣味者」として改めて旧青共同の文章を読んでみると、さすがに、批判すべき点はけっこうみつかるものの^^;;、やはりなかなか読みごたえがある、とゆーのが正直な感想です。
 ただ、今回これを書くにあたり、現IEGの Webサイト(ちなみに現在、日本の新左翼系党派で、Webを積極的に活用している党派は数える程しかありません。さらに、英語版で活動を海外に紹介しているのは、IEGと革マル派と社労党だけです(うーむ、IEG以外は、日本の新左翼運動の中の「異端」ばかり^^;;)《←この文修正:990611》。全世界の左翼組織がインターネットを大活用している一方で日本の左翼がこれを全く活用していない状況の中、やはりIEGは「ヘン」ですね(笑))を一応全部読んでみましたが^^;;、旧青共同とはかなり「変わっている」印象を強く受けます。なにせ、あれだけ批判しまくっていた建党協議会と、現在いっしょにやってるのですから...。この建党協の件は、Webで知った時、やはり大きなショックを受けたんですよ、マジで^^;;
 もちろん、機関誌バックナンバー一覧を見れば(現在の路線が変わっているにもかかわらず、過去の路線下での蓄積をすべて開陳している姿勢は、いかにも彼ら/彼女ら「らしい」ところ)、この10年の間に彼ら/彼女らが変わってきた苦闘の軌跡を感じ取ることはできますし、何よりもいずみはもはや「主義者」ではなく、それに対して批判するつもりも資格も何もありません。

 願わくば、現在の活動をきちんと続けていってほしい。それが、元ふぁーん・現在は単なる「趣味者」である、いずみの希望です(^^;;)。



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