2. 長戸大幸史

 ビーイングは、基本的には総帥である長戸大幸(ながと・だいこう)氏の号令の下、組織が動くという極めて合理的な運営を行なってきました。94年に「引退」した後は、トップは中島正雄氏に代わりましたが、依然「院政」を敷いているとも言われています。ともかく、象徴的な意味で「ビーイング=長戸大幸」と言ってよいのです。
 長戸氏は1948年滋賀県大津市生まれ、現在48歳。本名は同じ表記で「ひろゆき」。中学時代はクラッシック・ジャズ・アメリカンポップスを聴きまくり、高校ではエレキブームにのってバンド「ウィズ」を結成。京都でファニーズ(後のタイガース)と共にライブ活動を行いました。その後青山学院大学に合格し上京。そのとき出入りしたいずみたく事務所の関係で、大学中退後「赤と黒」というフォーク3人組を結成、<TE>から「Mr.D.J.」をリリースしています(もっとも、ほとんど売れなかったという話(^^;))。
 長戸氏の音楽に対する雑食性は、この未成年時代に磨かれたのです。中学生の頃に昼ごはんを抜いて購入したアメリカンポップスのレコードの数々は、今に至るも彼の、すなわちビーイングの音楽的な財産になっています(ネタ元にしているという言い方もありますが(^^;;))。また、「いける」と思ったものには何にでも手を出して行く行動力もこの時代に磨かれたのですね。
◎ヘヴィ・メタルなんで好きかっていうと、僕ドラムもやってたんで、ドラム叩くのが好きだったから。それから、なぜグループサウンズやってたかっていうと、キャーキャー言われるのが好きだったから。ジャズは、コーヒーを飲んでたばこ吹かしているときに聴くと気持ちいいし。もう動機はそういう動機。音楽として聴くよりも、TPOに合わせて、音楽をチョイスするだけであって…
 (「よい子の歌謡曲」13号('83)長戸氏大幸インタビューより)
 「赤と黒」が鳴かず飛ばずだったまま、彼は一時期音楽界から身を引き、京都でブティック・縫製工場・サパークラブなどを経営します。しかしこれも石油ショックのため続かず、75年、27歳で再び上京します。
◎どうせ音楽やるんなら、目一杯トップと目一杯最下層と知り合おうという考えがあった。それで、歌謡曲なら阿久悠さんと知り合おう。フォークだったら、フォーライフがいいんじゃないか。ロックだったら、矢沢とかキャロルとかクールスみたいなのとやりたい。ブルースだったら、関西のウエストロードとかいいんじゃないか。て、全部そういう線を引いたの。
 (「よいかよ」より)
 そしてこれらの狙いは、とりあえずあっさり達成されてしまいます(^^)。フォーライフの第1回新人オーディションに入選、シングル「軽い気持ちで」を吹き込みます(ただしリリースされず(^^;;))。そしてその縁で阿久悠の事務所に入り、作曲活動を開始、クールス解散後ソロで活動することになった舘ひろしのアルバムに作曲家として参加します。また、ウエストロードのライブに度々参加していた妹尾隆一郎のマネージャーになりました。

 彼のプロデューサーとしての初めての成功は、78年のスピニッヂ・パワー「ポパイ・ザ・セーラーマン」<K>です。当時ディスコミュージックが大流行、また雑誌「ポパイ」が若者文化(^^;;)の象徴とされていたのですが、

◎月光(筆者註:インタビュー当時のビーイングの副社長・現在はパブリックイメージ)が、僕に、「ポパイ」という本知ってるかって言ったんです。情けないことに、当時あまり金もなかったんで、「ポパイ」という本を(金がないのと関係ないけど、)読んだことがない。(中略)それから、今、ディスコ・ミュージックがすごく売れていると。ディスコも行ったことがない。で、ポパイという本を買って来て、見てみて、ポパイの漫画が載っていないので、アレッと思った。たとえば、スーパーマンて本があって、スーパーマンが載ってるでしょう、普通。で、何で売れるんだろうと読んでるうちに、面白いな、と思った。遅れてたんですね。で、ポパイ・ザ・セーラーマンをテーマにしたディスコミュージックをやろうというアイデアが持ち上がったんです。(中略)それで、俺もディスコ行ったことがないので、まぁ行く金があるんだったら、ディスコミュージックのレコードも知らないから、ディスコ・レコードを買いに行ったわけ。レコード店へ行って、すいませんけど今一番ヒットしているディスコ・シングルはないですかって言って、三枚分しか金なかったから、三枚買って来たの。
◎結局、何で売れたかというと、妹尾のプアプア(筆者註:ハーモニカ)と、三人(筆者註:織田哲郎・村田有美・西浜鉄雄)の絶妙のコーラス、ああなると思ってもみなかった。最初は下手でもいいから員数で、俺も一緒に歌おうと思ってた。あんなに上手い奴が集まると思わなかったわけ。それと、バック・ミュージシャン(筆者註:後のマライア)が良かったのと、あとはたまたま買って来た三枚のレコードがあの三枚じゃなかったら違う曲になってた。
 (いずれも「よいかよ」より)
 結局このアルバムは40万枚を越える大ヒットとなったのですが、ここには既に、長戸氏の制作に対する、現在に至るも変わらない姿勢をみることができます。

 ・コンセプトを自らつくりだすのではなく、既製のモノを奇抜に組み合わせる
 ・音づくりはきちんとやる
 ・系列のミュージシャンを活用する

 引用は避けますが(^^;;)、このインタビューで長戸氏は、3枚のレコードのモチーフをいかにパクり上げたかについて、延々と得意げに語っています(^^)。また、「ディスコミュージックは日本で言うなら盆踊りだ」とばかり地元滋賀県の江州音頭の合いの手を埋めこんだ、という話も紹介しています。結局、おもしろそうであれば構わずアイディアをいただき、それを組み合わせて作品をつくりだす、結果ネタがバレても結構、という、ある種開き直りとも取れる方法論ですね(^^)。
 また、妹尾隆一郎の売り上げを伸ばそうとばかり、ディスコミュージックなのに無理矢理ブルースハープを突っ込む、というのは、コーラスをジャンルに全く関係なく系列ミュージシャン総動員でやらせたりしている現状と同じです(^^)。

 このヒットがきっかけで、この時知り合った織田哲郎(当時まだ19歳)らを擁してビーイングを設立。当然、ディスコものを何枚か出しました。古くからのビーイング作詞家である亜蘭知子もこの頃のデビューです。その後、映画のサントラを何枚か手掛けた後、「ロック界のアリス」という触れ込みで、「WHY」という、北島健二(現Fence of Defence)・織田哲郎・長戸氏秀介からなるユニットをつくります。「原盤を持たないと好きにつくれない」ということから、原盤を100%ビーイングで持って制作した初のレコードが、これでした(もちろん、現在でもこの「原盤100%持ち」というのは絶対条件になっています)。
 長戸氏の、織田に対する評価は、もう手放しと言っていいほどです(^^)。

◎この時点で専業作家は遠からず自作自演アーティストにやられるナと思った。どうせ追いつけないのなら今から織田と組んでおこうと考えた。
 (「日経エンタテインメント」93.3.17号)
◎織田哲郎は本当にスゴい力あるから、絶対いつか陽の目を見ます。
◎うちとしてもCBSソニーと組むにあたって、CBSソニーにどうだって見つけられるような先発投手ということで、うちの中の取って置きの織田哲郎を持っていったというのが本当の話です。
 (いずれも「よいかよ」)
 対するに、長戸秀介という人に対しては、クソミソです(笑)。
◎WHYが解散したあとに、弟は事務所で作詞家やったり、一色ゆかりのプロデュースやったりして、お前音楽的才能ないから表に出るなって話をして、彼は事務所をつくったわけですが…
 (「よいかよ」)
 長戸兄弟の血肉の争いは、この当時からということになります(^^)。ちなみに弟氏の事務所は「レイズイン」というところですね(^^;;)。Mi-Keに対してポチ!というのもあまりにすばらしいセンスであったことには違いないです(笑)けど、それにしても柳原愛子はナゾですね…

 しかしそのWHYは売れないまま解散、その後織田哲郎のソロを出すも、あまりパッとはしませんでした。その一方で、歌謡曲畑ではまずまずの成果を上げています。倉田まり子や沖田浩之、女子プロ時代のミミ萩原、岩城徳栄などを手掛けていますが、最初の成功は三原順子でしょうか。ビーイング設立当時、友人のカメラマンのパーティにたまたま来ていた当時13歳の三原を「18歳くらいだと思ったんだけど、話聞くと中学二年生だと。凄いなぁと思って、」(「よいかよ」より)レッスン。いろいろなレコード会社に持ち込むもみな断わられたため、自分のテリトリーである<K>からデビューさせています。つまり、「金八先生」以前から、音楽面ではビーイングが仕切っていたということになります。もちろん、

◎「セクシーナイト」は「ダンシング・オールナイト」が当時ヒットしたので、それのパロディ。「ド・ラ・ム」ってのは、「私はピアノ」がヒットしたので、そのパロディ。
 (「よいかよ」より)
というように、その相変わらずの制作姿勢は長戸氏本人がアピールしている通りですね(^^)。

 そして、この調子でビーイングは次々と仕掛けを行なっていきます。そんな仕掛けが世間から最初に非難されたのは、秋本奈緒美です。まずマライアを「フュージョン系プロデュース集団」として仕立て上げ(と言ってもマライアは本当に実力はありましたが)そこからまず作詞家亜蘭知子をフュージョンヴォーカリストとして売り出しました。この芸名も、彼女が世に出た当時、阿木燿子・阿久悠が作詞家として人気が出ていたから「あ」で始まる名前としてつけられたのですが、ちょうどこの頃は阿川泰子が売れてきていた時期、阿川・亜蘭ときたので続けて秋本奈緒美をジャズヴォーカリストとして売り出すことになったわけです。さらに調子に乗って麻生小百合まで出すことになったのですが、当然これらにはジャズファンから非難の雨あられが殺到したわけです(^^)。それに対しての長戸氏の反論。

◎だから、僕は本物のジャズは本当に好きなんだけど、たとえば本物のアーチストがいて、それをレコードにする、というのは、映画で言えば、本当に戦争があって、戦争の映画を撮りに行く、ドキュメンタリーですよ。それも厭じゃない。ドキュメンタリーも、ある種、僕はやってますけどね。ラウドネスとか。ドキュメンタリーをつくる意識はそれでいいけど、劇映画を僕らはつくろう。たとえば、水着で出て、キャンキャンやるようなジャズ・シンガー、麻生小百合という一つの脚本があって、その役に誰がいいかって考えたところ、あの大場淑子って子はピッタリじゃないかってつくったものを、芸術であるとかないとか議論されると、じゃ映画は全部ドキュメンタリーじゃなきゃだめなのかって言って来いみたいな話しになるわけで。誰もわかってやっているわけで。
 (「よいかよ」より)
 これはまさに現在の、ZARD・Manish・BA-JIといった、スターダスト系ビーイング女性ヴォーカルのあり方そのものです!(^^) さらに長戸氏はこうまで言っています…
◎たとえば十代のかわいっ娘ちゃんなんかを、これこそ本物のエラフィッツ・ジェラルドだって嘘やって、エラみたいな歌を歌える40くらいのオバンを連れて来て歌わせて、ジャケットにはその十代のかわいっ娘ちゃんを出して、「私は一切ライブ活動はしません。」なんて、そこまでやったら、それも出来ないことないでしょう。あんまり言われると、僕ら次はそれをやってもいいとまで思ってるんですよ。でも、それをやってないんだから、ワーワー言われたくないですよ。もっと娯楽に考えてほしい。
 (「よいかよ」より)
 …現在、かなり近いことをやっているような気も…(^^;;;;)。
 この路線は続けて、ヘヴィメタにも適用されます。
◎ヘヴィ・メタルがあんなにあるのに(筆者註:82年のアメリカを指す)、日本じゃ火が付かない。ということで、ヘヴィ・メタルバンドつくりたくて、ラウドネスつくったんです。これがまあまあ売れて来た。ところが、8割位男のファンなんです。男のファンがあんなにいるにもかかわらず、ヘヴィ・メタル・クイーンがいない。いるとしたら、カルメン・マキしかいない。カルメン・マキは30過ぎでしょ。まるで、ジャズと同じ状況だった。ヘヴィ・メタルのテニス・ルックとか、ヘヴィ・メタルの歌下手版とかいうのをつくろう。ヘヴィ・メタル・アイドルとか、ヘヴィ・メタル・プリンセスっていうんで、昨年本城未沙子をやって、今年4月に浜田麻理が出ますが、8月に取って置きの15歳の、ちょうど三原順子がデビューする前ぐらいのタイプの、早瀬ルミナというのを出します。特に15歳の娘なんて、エラいアイドルですから。
 (「よいかよ」より)
 そんなこんなで、引き続き仕掛けを打ち続ける長戸氏でしたが、83年にはCBSソニーと提携。84年にTUBEが大当たりし、織田哲郎も作家として初めて評価を得ました。ただしまだ、現在のような、制作のすべての過程を丸抱えのアーティスト・スタッフで固めるだけの体力が、会社にありませんでした。TUBEにしても、結局アーティストマネジメントは外部プロダクションへ委託しています。
 ちょうどその当時、シングルレコードの売り上げは漸減傾向にありました。シンガーソングライターが幅を利かせ、実力のあるミュージシャンはアルバムを売る、という時代、元々企画モノで勝負することが多かったビーイングの地位はそれほど安泰ではなかったようです。TUBEのヒットにもかかわらず、「何度も会社をたたもうかと考えた」(「日経エンタ」より)と長戸氏自らが告白しています。

 ビーイングの時代は、88年からのシングルCDの時代とともにやってきました。シングルの売り上げが伸び、再び活躍する下地がそろったのです。
 長戸氏は、スタジオミュージシャン、そして既にデビュー済みの実力あるアーティストをグループ内で確保。90年、折りからのイカ天ブーム、アマチュアバンドブームに対抗する形でB.B.クィーンズをつくり、200万枚を越える大爆発をかちとりました。これは単に音楽をビーイングが担当した、というレベルではなく、当初からヒットを狙って、「ちびまる子」のアニメ化そのものを長戸氏自らがコーディネートして誕生したものです。最終的なメンバーは、坪倉唯子・近藤房之助・栗林誠一郎・増崎孝司(現DIMENSION)・望月衛介・Mi-Keという豪華な顔ぶれですが、1stアルバムのジャケ写には栗林やら増崎やらは写ってはおらず、代わりに元ウエストロードの中島正雄(現在表舞台から身を引いている長戸氏に代わり、ビーインググループの表の顔を務める人:ビーイング創設以来のスタッフ)やら、長戸氏の娘、長戸夕奈ちゃんやらが写っている。当時多くの人は、「スタジオミュージシャンあがりのひとたち」という宣伝を信じていたようだが、ブルーズファンは元ブレイクダウンの近藤房之助の変わり果てた姿(笑)に失望し、アイドルファンは「すッぴん」「大海賊」でおなじみ、宇徳敬子のかわいい姿(^^)に狂喜したといいます(^^;;)。
 果たして当人はどう言っているのでしょうか? 誠に残念ながら、宇徳敬子のコメントは入手できませんでした(アタリマエ(^^;;))ので、ここでは近藤房之助のコメントを紹介しておきましょう。

◎(長戸氏は)僕の音楽に対する思い入れを全く話さなかった唯一の人だった。『あなたの音楽を銭にする。僕は近江商人だから。』って。嘘がないなぁ、おもしろいと思ったよね。
 (「週刊朝日」93.10.22号)
◎(ブルースファンはB.B.クィーンズをやった近藤房之助には失望したかもしれないけれど、当事者はけっこう楽しんでいたんじゃないですか?との質問に対して)それはありますね。(中略)今流れている音楽に素直に耳を傾けてくれないというのがすごく不満だったのね。近藤房之助はどういうコンセプトで、なんて言われてもこまっちゃうんだよな。それなりに与えられた時間の中で絞りきった言葉なんで、説明がつかないわけですよ。そもそも筆舌に尽くしがたいのが音楽なんだから。
 (「Music Freak」vol.1(94.11))
 実際には、ビーイングがつとめてブルーズ系ミュージシャンを抱えようとしていたこと、中島正雄制作部長が元ウエストロードだったことも理由にはなっているのでしょうが、キレイゴトを並べる他の事務所に比べ、長戸氏に対して「なんだこいつ、おもろいやっちゃ」と感じたのは事実でしょう。そしてその「おもろさ」に自分が付き合うだけの音楽的な度量もあったからこそ、シルクハットにタキシード姿でがなることができたのです。もちろんこれは坪倉唯子にもあてはまるでしょうし、他のビーイング系ベテランにもすべてあてはまることでしょう。
 結局、ビーイングを支えているスタッフの原動力は、金も当然あるでしょうけど(^^;;)、「音楽で何かしでかしてやろう」という部分にあるのではないでしょうか。
 よく、音楽というのは「自分の感情や感覚を音で表現するために」あると言われています。しかし、多くのユーザの立場としてはそんなことはどうでもよく、単に音を聴きたい状況があって、その中で音を選択しているにすぎないのではないでしょうか。そこに食い込むために、自分の力量を注ぐ、というのは、彼/彼女らにとっては、少なくとも音で自己主張をするのと同程度に、自然なことなのでしょう。そして、そういう人材を集めコントロールしている長戸氏はやはり凄腕である、と言わざるを得ません。
 もちろん、長戸氏も元々は作曲家であり、「売れるようにつくる」ことだけで満足してはいないでしょう。実際には、「売れる」「良質」ともども、自分の納得のいく制作をしたいという、極めてまっとうな欲求があるだけなのでしょう。
 ごく初期の、WHYやスピニッヂパワーをプロデュースした際も、
◎何かレコード会社の主導権の中で、売れるように売れるようにやらされていくことに対する反発という意識が僕にはあったんで、マライア以降は絶対にレコード会社サイドに媚びないでレコードつくっていこうという姿勢なんです。そうしないと、やっぱりいいもん出来ないと思って。
 (「よいかよ」より)
 この姿勢、権威への反発が、必ず原盤を100%自社で持ち、挙げ句の果てには自らレコード会社を設立してしまうところにまで彼を強くしたのでしょう(もっとも、今は同じことやっているというとも言えますが(^^;;))。

 よく、長戸氏の商品づくりは「柳の下のドジョウ狙い」と言われます。サザンにTUBE、TMNにB'z、BOφWYにT-BOLAN。ただ、これはマーケティング的には確かにそうなのですが、音づくり・キャラクターづくりに関しては必ずしも言えることではありません。
 音作りについては、実はビーイングは世間の風評(同じような曲ばかり、など)とは全く逆に、かなり緻密です。無論、ほとんどがパクリとパターン流用であることには違いないのですが(^^;;)、そもそも、邦楽のメロディーラインはほとんどが洋楽のパクリであることを忘れてはなりません。そしてそのパターンのストックは膨大です。長戸氏本人の60年代前半のアメリカンポップスのレコードコレクション、そしてそれ以降の洋楽ヒットのありとあらゆるパターンを蓄積し、それをどんどん組み合わせて新しい音にしていく手法は、これまで筒美京平という人が個人でやってきたものですが(笑)、それをスペシャリスト集団が、自分のセンスと融合させながら次々と再構築・大量生産していくのはまさに壮観です。小室哲哉が、自分のオリジナルではあるものの極めて少ないパターンを延々と使いまわしているのとは全く好対照であると言えましょう。そして、度々引用してきたインタビューでも、それを堂々と自己主張しているところがなんとも凄い! 大物なのか、単におしゃべりなのか…(爆)。
 また、キャラクターづくりでは、T-BOLANのように、スタイリストがBOφWYの掲載雑誌を一生懸命コピーして参考にしていたなどの全くの2番煎じもあるのですが(笑)、むしろそれよりは「既製のヒット商品の逆を行く」「間隙を縫う」ことが多いのです。秋本奈緒美もそうですし、浜田麻里にしてもそうですし、B.B.クィーンズもそれです。このあたりを、長戸氏本人はこう語っています。

◎これだけメディアが発達してて、何をやってもみんなやっちゃってるみたいな状況の中で、それこそそういう突拍子もないアイデアで考えない限り勝てないというのが、雑誌であれ何であれ、あると思うんです。隙間産業みたいなやつ。
◎だから、そういう意味で大塚製薬ってのは、隙間産業の上手い会社だと思うんです。聖子以下のアイドルをコカ・コーラ等の清涼飲料水とすると、リポビタンDという薬局しか売ってないのが阿川泰子で、それでオロナミンCということで秋本奈緒美をつくったんです。
◎要するに物事すべて反対にしただけなの。物事をより展開するときに、すべてを否定して同じものをつくったら、まったく違うものが出来るでしょう。そういう商品づくり論理ってのが、僕にはある。
 (すべて「よいかよ」より)
 今読むと、極めてアタリマエのリクツに見えます(それにしても、ビーイング最大のお得意先である大塚製薬が話題に出ているのは驚愕すべき事実です!)が、83年当時にしてこの感覚というのはなかなかどうして、です(^^)。要は、「オリジナリティでは勝負できない・するだけの才能はない」という自己分析をして、それに対してアイディアで勝負していく、ということなのでしょう。

 ただし、これからも同じようなパターンが流行るわけではありません。当然長戸氏本人もそれは覚悟しているらしく、次の狙いを考えています。

◎彼はショーアップの時代はとっくに終わってる、ショーダウンだって言ってるよ。リアルの時代、力あるパフォーマーの時代だって。
 (「週刊朝日」93.10.22号 近藤房之助インタビューより)
◎これからは良質のアルバムをじっくり売る時代
 (「日経エンタ」より)
 これは最盛期、93年当時の話ですが、この言どおり、94年にはアルバムを立て続けにリリース。最近は小室系に押されているのですが、ちゃんと調べてみれば、その影で地道にアルバムを売っているビーイングの現在像が見えてきます。今後の狙いは何か?目が離せません。




“3.現在のビーイング”へ進む

“1.はじめに”へ戻る



この章のもくじへ戻る