封鎖中の駒場第八本館で越年パーティー
1999.5.13 更新  
柏崎千枝子氏その1
学生解放戦線−ML同盟の
メットを被った柏崎千枝子氏
 ここで採り上げる文章は、1968年大晦日、東大駒場にて駒場共闘(東大全共闘の駒場組織)が封鎖・占拠していた第八本館内で開かれた越年パーティーの模様を、当時駒場共闘の主軸を担っていた大学院生、“ゲバルト・ローザ”こと柏崎千枝子氏(当時?)が著書「太陽と嵐と自由を」の中で綴ったものです。

 柏崎千枝子氏は1943年5月生まれ。都立白鴎高校(「鴎」はほんとは旧字の方です)から東大文IIIに入学、教養学科に進学し、後期課程・大学院を通じて駒場に在籍していました。60年安保は高校2年の時に迎え、樺美智子さんの死に衝撃を受け、国会デモにも参加しています。東大闘争が高揚した68年には国際関係論研究科の博士課程1年で、研究科内の闘争体制の確立、全共闘への組織科、駒場無期限スト体制の確立などのために全力で闘っています。
 その一歩も引かない非妥協・実力の姿勢は、かの革命家、ローザ・ルクセンブルグをもじって「駒場のゲバルト・ローザ」と闘う仲間たちに称せしめ、本郷の山本義隆氏(現駿台予備校講師:「必修・物理」は名著です(笑))とともに東大全共闘の「象徴」でもありました。
 党派的には、中国派としてブントから分裂したML同盟の学生組織、学生解放戦線(赤ヘルの中央に太い白線、通称「モヒカンヘル」)に、全共闘結成の過程で所属。
 本記事の引用元である「太陽と嵐と自由を」は、彼女が69年、駒場の教官を追及したカドで逮捕された後、それまで書き溜めていた文章と獄中記をまとめ出版された書物です。

※東大闘争、そして東大全共闘については、武装したスターリニストを告発する記事^^;;の方でいずみの見解を簡単に述べてあります。
柏崎千枝子氏その2
日共−民青ゲバルト部隊と対峙する駒場共闘。
タオルの中から覘く、鋭い眼光の柏崎千枝子氏。

 「太陽と嵐と自由を」は、彼女自身の生い立ちから逮捕されるまでのさまざまな出来事・心象風景が、実に真っ正直に綴られています。その正直さは、後述するとおり、後にこの本が回収を余儀なくされてしまったほど(^^;;)。当時の活動家の軌跡、そして想いを知るための、実に貴重な資料なのです。

 我々成共同(笑)は、今後ともこの書物からの引用を行っていく予定ですが、今回はその初回として、まずは当時の活動のみずみずしさ・はつらつさ・そしていろんな意味での素朴さ(^^;;)が如実に表現されている(といずみには思える)、封鎖中の第八本館での越年パーティーの様子を紹介します。

 駒場共闘は、68年12月1日に駒場キャンパスの第八本館をバリケード封鎖し、ここを本拠地とします。一方学内では、劣勢に立たされていた日共−民青系諸君らが「学園民主化」を狙い、右派学生とともに代議員大会をデッチ上げるべく組織化を推し進めつつありました。実際に13日には、これらの諸君による「代議員大会」が開かれます。スト「解除」はならなかったものの、駒場共闘はこれを実力で粉砕できませんでした。これは直接には革マル派の諸君らが戦術に難色を示したことによるもののようですが、しかしそもそも革マル派は「一切の個別闘争・大衆闘争には、自組織の勢力拡大以外の意義は存在しない」ことを公然と路線化している党派であり(怒)、その革マル派が日和見主義を全面開花させていったということは、既に全共闘派学生の駒場でのヘゲモニーが低下しつつあったことを暗示してもいます。

 そんな「暗い」状況の中、ホッとさせてくれるよーな越年パーティー。
 その文面からは、わずか半月後、日共−民青ゲバルト部隊により封鎖が解除されてしまうことなど夢にも考えられない、闘いの明るさが伝わってきます(^^)。


十二月三十一日 駒場第八本館で越年パーティー

 戦後最高のボーナスとか、昭和元禄とか、叫ばれてにぎにぎしい年の暮れが近づいてきた。しかしバリケードの内側にある者にとっては、無縁な世間の風にすぎなかった。駒場からアルバイトにでかける途中、お正月の飾りつけをした商店街を見て、ようやくああもう師走かと気がつくありさまであった。闘争に四季はないのだ。
 約四十人の学友が駒場の第八本館で、郷里や自宅に帰らず新年を迎えることになった。バリケードの中とはいえ、せめて年越しのパーティーぐらいは開きたいという全員の意見で、大晦日の晩に盛大な(?)パーティーを開くことに決定した。新年からの闘争にそなえて英気を養おうというわけである。それに、正月の三が日は商店が休業になるので食料の心配もしなければならなくなった。
 篭城の食料買い出しに、私が出かけることになったとき、お米屋さんに頼んでおいた餅が届いた。焼豚をつくる豚肉四キログラムや、前日にSさん、Yさんが築地までわざわざ行って買って来た野菜、調味料等とともに、本部の隣のへやに集めたが、餅がくると、なんとはなしに、正月らしいムードになる。心なしか、私の心も浮き立ってくるのだった。
 お昼過ぎにLI、II闘争委のA君、U君のふたりをつれて、高田馬場の西友ストアに、買い出しに行った。たくさんの人数のために料理を作るのだから、膨大な量の材料が必要になる。三人は大きな風呂敷や入れものを用意して行った。

※「LI・II」は、文科I・II類のことです。東京大学は、入試は文科I・II・III類、理科I・II・III類の3つに分けて入試を行います。この中で「単位さえ取れば希望者全員が進学できる」のが文I→法学部、文II→経済学部、理III→医学部医学科で、文III・理I・IIについては、入学後1年半の一般教養科目の成績で進路が決まります。その一方で、クラス分けは文I・II、文III、理I、理II・IIIの4パターンで、さらに第2外国語の選択によって行われます。いずみだったら「理II・III8組」で、これはドイツ語未習クラスってことになります。って言いつつ、ドイツ語は1単位も取ってませんが(爆笑)
 師走の町はあわただしかった。バリケードの外にしばらくぶりに出たので、巷の様子に一瞬、めまいを覚えた。いちどに年の暮れが私の回りに集まってきたようだ。西友ストアに着くと、案の定、主婦や若い女性で店内はいっぱい。ふたりの男性はこの情景を見て、辟易した様子だ。
「将来の奥さん孝行のために、今から訓練よ。これくらいのことで驚いてちゃ、いいお嫁さんはもらえないわよ」
 と、私は軽口をたたいた。ところが、
「柏崎さんみたいな奥さんはもらわないから大丈夫ですよ」
 と、小憎らしいことを言う。
 冗談を言い合っていても、仕事のほうにとりかからなくちゃと、混雑した店内にもぐりこんで、三人とも必死の覚悟で、カゴを持って押し合いへし合い、おでん、なます、田作り、きんぴらごぼう、煮しめ、お雑煮、お汁粉などの材料を、山のように積み上げ、やっとの思いでひと通り買い終えたころには、クタクタに疲れてしまった。
「買いものをするってことは、命がけなんだな」
「女の人も結構たいへんなんだなあ」
 などとA君とU君は殊勝げなことをいって、妙なことに感心していた。

※今回のこの文章の最大のポイントは、この部分ですよね(^^;;)。「性役割分担」なーんて発想は、この時代の左翼には皆無だったってことがよーく分かります^^;;
 まぁもっとも、じゃ今の左翼はいずみみたいな GIDについて何も言えてないわけで、そのあたりはすっごく興味があります。どこか、見解出してくれないかなぁ:-)
 第八本館へ、この買い物の大きな荷物をかかえてもどると、休む間もなく調理場に入る。なにしろ四十人分を三、四人の女性が作るのだから、なまけていては、大晦日のパーティーが、元旦の夜明けになってしまいかねない。Yさんにはお汁粉、なます、酢ばすを頼んでから、三階のガスを使って大きなボールにおでんを煮込む。四十人分のおでんはいったいどのくらいの量があればいいものなのか、まったく見当もつかない。ともかく大根と里芋をゆで、だしをとって味つけをし、トロ火で煮始めた。すると、三階いっぱいに、おいしそうなにおいが漂っていったらしく、あちこちのへやから顔が出てきた。

※念のため注釈しておきますが、「トロ火」ってこの場合はあんまりギャグじゃないです。だってSFLって「スタ」だもん:-)
「何を作ってるんですか」
「いつごろ食べられますか」
 という質問はまだいいほうで、あげくの果てには、
「ちょっとつまみ食いをやらせてくれませんか。腹減ってるものですから……」
 と、折衝に来る者さえ出る始末で、まったく笑ってしまった。
 家にいれば、たらふく食べられるし、若い年齢がそれを要求している。それなのに、貧しい闘争の中では、毎日インスタントラーメンと、パンとみかんくらいで、がまんしていたのだから、無理もないだろう。“つまみ食い志望”の者も含めて、みんなのご要望にこたえるために、食事係の男性が、
「本日午後九時より、年越パーティー。うまいものたくさんあり、酒もあります。乞御期待!」
 と食堂の入口に張り出した。

※いずみの時代にちょうどメジャーデビューした、「共産党からAVまで」をキャッチにしてるライター、本橋信行氏が新左翼系の本を出してたんですが、連合赤軍のリンチ殺人を「山岳ベース生活でのカルシウム不足が原因と断定する」とか書いてあって、駒場寮の同志といっしょに爆笑してたですが(笑)、でもこれってもちろん主因じゃないけど、小さくない要因の1つじゃないかなぁ、って気は正直してますですよ...
 八時には配膳を始めた。“腹の虫よ、もうチョット待ってちょうだい”である。おせち料理と、おでんを盛りつけ、お酒は茶碗でやってもらうことにする。食事係のひとりが、「できたわよっ!」ひと声高く叫ぶと、三、四階から、皆が飛ぶようにしてやって来る。一同そろったところで、Kさんの音頭で乾杯し、パーティーが始まった。たちまち、おでんのお替わりの注文が出る。早い者勝ちだから仕方がない。
 お酒を少し飲んだだけだったが、一度に、疲れが出てきたのといっしょに、とてもよい気持ちでボーッとなってしまった。もうろうとした頭の中を、この一年間のことが、走馬灯のように現れては消える。苦楽をともにしてきた同志たちの明るい表情が、そのときどきのことと合わせて思い出されてくる。人間の深い部分でつながった仲間たち。この連帯こそは、あすに賭けられるものなのだ。悔いのない充実した一年間であった。

※ここ、ほんとに心に染み入るなぁ...(うるうる)。結局いずみが運動やってたのって、こーゆー「連帯」をこころが渇望してたってのは要因の1つかも知れませんです。
 一九六九年は東大闘争を初めとして、全人民の闘いが一気に爆発するだろう。全共闘は、その闘いの渦の中に、風をいっぱいに受けた帆船のように意気揚々と進む。新たな希望にあふれた旅路の門出なのだ。私の旨も希望でいっぱいにふくらんだ。
 大晦日の夜の一二時が鳴った。私たちは全員が立ち上がって、肩をしっかりと組み、高らかにインターを唄った。一節ごとに、インターは私の心にしみる。こんなに気持ちのよい元旦は、私には生まれて初めてだった。だが私は、しまいには酔いつぶれてしまい、だれかわからない人の肩を借り、四階のソファーに、死んだように寝入ってしまった。

※いや、当時はまじめにこーゆー「リアリティ」があったんでしょうね...いずみは、80年代中葉に、一切の幻想がない中で学生運動を経験できて、まじで幸せだったです。



 さて、ここまでお読みいただけた方^^;;にとって、特に70年以降に闘いを体験された方々にとっては、なぜこの本が回収に至ったのかは自明でしょう(苦笑)。
 いずみのにっき・99年5月8日版でもちょこっと触れてますが、70年代からの新左翼運動は、「反差別」を2大主軸の1つとして(もちろんもう1つは三里塚)闘われてきました。そして女性戦線に於いては、それまでのあまりに差別的な雰囲気を否定するあまり、逆に極端な拝跪主義をも生み出していきます。
 しかもこの本、なにせ女性=当該が書いてたりするわけで^^;;。なおさら、「回収」なんて事態になってしまうのは、その後の史実を知る者にとってはまさに「歴史的な流れ」としか言いようがない代物だったりします。

 しかし、そーゆー否定的な部分も含めて、この書物にはけっこう共感する部分が多かったですよ、いずみは。まじめに思い詰めて、どんどん思想的に凝縮、自分にも他人にもたいへん厳しく接して、でもなんかどーも「あるがままの意識」(=ブルジョアイデオロギー)を丸出しにしてる部分もあったりして^^;;。
 当時、口先では「こりゃひどいなぁ」(もちろん、差別的な部分に対して、それからまさに「スターリン左派」チックな急進主義に対して)などとわめいてたいずみですが^^;;、でも実は、「こーゆーふーに闘えればなぁ」なんて密かにあこがれてもいたんですよね^^;;;;

 今、彼女は何やってるんでしょうか...
 同志だっただんなさんとは離婚して、保険の外交員をやってる、なんてうわさも耳にしたことがありますが、願わくば、この時代のことを「清算」していてほしくはないです。やぱ、彼女はいずみにとっての「大先輩」だったのだから...^^;;


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