「『人民の力』派内フラクとの統合をめぐる共産主義研究会の分裂」
1999.5.13 更新  
 今回の青年共産主義者同盟(準)(現「国際主義」編集会議)ネタは、小市民同志が爆笑的にデッ建設を克ち取った(^^;;)、レーニン趣味が臭え同盟(Lが同)への連帯企画として、ふたたび「国際主義」18号(1987年2月号)よりの引用です。

 旧青共同(現「国際会議」編集会議)は、元々は日本社会党内での最左翼かつ最大規模であった社会主義協会の、愛知変革グループでした。
 このグループは、党内派閥としては太田派(=太田薫元総評議長の系列)に属していました。太田派自体は、もちろん国会議員も擁する普通の派閥内派閥ですが、その中の一部に「社会主義協会を革命政党として独立させる」ことを目標とした部分が誕生します。いわゆる「人民の力派」です。
 実際に人民の力派(通称「人力」)は、70年に太田派主流と揉めて協会を離脱し、71年には「日本労働者階級解放闘争同盟」とゆー組織を旗揚げしました。当初この組織に結集したのは、国労青年部を広範に基盤とするグループ、九州グループ、京都グループ、学生グループです。実際問題、国労青年部にはこの時点で数千名の同盟員が存在したとゆー説もあり、路線はやはり労働者中心・労働運動中心です。
 しかし、元々愛知県下の大学で全共闘運動の一翼を担っている部分が主軸だった愛知変革グループは、当初この組織に合流しませんでした。そして遅れること1年、ようやく人力派への結集を追求した愛知変革グループは、なんと人力にそれを拒否されてしまいます(笑)。
 人力派主流は同時に、学生運動の停止・政治闘争の停止などの露骨な組合主義的方針を決定し、九州・京都・学生グループとの軋轢も深めていきますが、この過程で九州・京都・学生グループの中の一部が人力派を除名されます。そしてこの除名グループと結集拒否された愛知グループは、その理論的な温度差を越え、72年に「共産主義研究会」とゆー組織を旗揚げしました。
 一方、人力派内に残った九州・京都・学生部分は、内部で非公然分派を形成しますが、中央との摩擦は徐々に強まり、結局75年に人力派から分離、「日本労働者階級解放闘争同盟全国協議会」−戦線派を旗揚げすることとなります。元々共産主義研究会の半分を占めていた人力除名グループは、この分離グループと同一の思想性を共有していたわけで、当然ながら戦線派への合流を追求します。しかし愛知変革グループはこの合流を嫌い、結局共研は分裂。除名グループは戦線派に合流し、共研に残った部分はこの分裂で最後的に社民左派への信頼感を払拭し、否、極端な「みそぎ路線」(っていずみが勝手に名づけただけ^^;;)に走り、赤ヘル被って(ちなみに人力や戦線派は社会主義協会−社青同の流れを汲む白ヘル)三里塚へと突撃するに至る(人力や戦線派は「三里塚は小ブル農民の運動でナンセンス」見解−後に戦線派は三里塚に登場、通称「何しに来たぁ!」事件につながる(激謎))わけです。

 そーなんです!戦線派−L学同は、まさに青共同の直接の分裂相手、不倶戴天の敵同士、ってことなのです。
 もちろん、今回旗揚げを克ち取ったLが同はL学同のかつての闘いの様子を紹介しているだけ、我が成共同(笑)は青共同(準)の文章を紹介してるだけ、ってわけで、お互いにこの敵対関係とはなーんの関係もなく、むしろ「社青同サイト3きょうだい」として熱烈友好関係を形成してるのですが(笑)、やはりこの友好関係の背後にある(ないってば(笑))歴史を開陳しておくことがぜひとも必要ではないか、とも考え、今回、まさに青共同側が戦線派との分裂過程をどのよーに捉えていたのか、を紹介することと相成ったわけであります。

 しかしいずみ的には、この文章の紹介にはより「強い」意味も感じています。
 とゆーのは、いずみが青共同の一方的勝手的ふぁーん(笑)だった根拠の1つが「他党派批判の『すがすがしさ』−論理的にはボロクソに、でも形式的にも“政治関係上”も節度を守って」が、他党派にみられない高い水準だった、と思えたことなのですが、しかしこの戦線派に対する批判・非難だけは、この水準を大きく下回っている代物だったのです。
 日本の歴史上幾度となく繰り返されてきた「近親憎悪」的「内ゲバの情念」が、よもや青共同のよーな党派までも虫食んでいたんだ、とゆー厳しい現実は、日本的な反体制運動のあり方をめぐって、いろんなことを考えさせてくれます。

 なお、この文章は87年発行の機関誌18号に掲載されたものですが、文章自体が記述されたのは82年。機関誌18号は、前回も採り上げたとーり、政治闘争からの撤退を提案する内容だったわけですが、その中でこの文章は「批判的に検討し、乗り越えるべき対象」として紹介されています。
 この論文は、青共同の思想変遷を探る上では全体として大変重要なものですが、今回は特に、戦線派について触れてある部分のみを、全体の流れと極端には乖離しない程度に取り出しました。いずれ、全文を改めて掲載したいと考えています。
 クレジットの「共産主義者委員会」とゆーのは「青共同内の理論グループである」ととりあえずはお考えください。(とにかく、CS→YSC→YCL→IEGの歴史経緯ってもうこれ以上ないくらい複雑なんですよ^^;;)



組織的総括を中心とする共産主義研究会の総括
− 6大会路線の限界とその克服の課題

1982.1.11 共産主義者委員会

 我々は、81年を通じ、重大な総括論議を続けてきた。
 我々の潮流は、72年共産主義研究会結成を発端とし、75年共産主義研究会分裂。77〜78年開港阻止決戦と行動戦線結成を経て、80年の闘いの中で深刻な矛盾を顕在化させた。
 この矛盾は、結成以来我々が払拭を追求しながら、未だ根本的な点でなしえなかった経済主義の残滓によるものであり、それ故現在の総括活動は、我々の根底的な飛躍を任務とする闘いの一環に他ならない。以下、その総括活動の位置を、我々の潮流の位置を踏まえ、明らかにしたい。


1.第一期共産主義研究会時代(72〜75) 社民左派など諸グループとの統合の追求
 (略)


2.「人民の力」派内フラクとの統合をめぐる共産主義研究会の分裂(75年)

 「人民の力」派内反対派(現「戦線」=「連帯」派)の分裂にさいし、共産主義研究会結成時からの課題であった反対派との統合を目指す作業−論議が活発化したが、共産主義研究会内部には、反対派の地方主義=サークル主義、民同的思想への疑問が広範に存在し、統合前の十全な討議−“七度計って一度裁て”“統合前に分界線を”などレーニン『一歩前進・二歩後退』に示される思想の実践化−を要求した。それに対し<無条件統合、指導部内のみの討議>に固執するW一派(中央指導部内の半数)は、討議停止−書記局凍結−議長全権掌握なる官僚主義的暴挙を強行しようとして破産し、サークル主義的行動を積み重ねた末に逃亡・脱落した。反対派は、当初我々と共にフラクションを形成していたが、共産主義研究会のフラク参加を「内部が分裂している」ことを根拠に凍結し、W一派への暴挙への評価を言を左右して逃げ回り、最後的にW一派が“無条件にフラク方針に従う”と表明したことをもって迎え入れた。共産主義研究会党内闘争の間、反対派が一貫して主張したことは、「指導部内で収拾すること」「双方の主張を腹に収めての和解」のみであった。(『大道』39号「最大限の厚顔無恥と最小限の論理」、4回大会議案、5回大会議案)

※のっけからレトリック大爆発です(笑)。他の党派に対しては、論理的にはケチョンケチョンな非難であっても^^;;「暴挙」「逃亡」「脱落」などの表現は使ってないんですよ。革マルに対してですら!
 −ここで、我々が最も関心を集中せざるを得なかったことは、「レーニン主義的組織活動の形式」を最も強調してきた部分であるW一派が、統合という事態の前に、組織活動のサークル主義的逸脱を全面開花させた事実である。
 こうした根拠の根絶が必要となっていた。


3.6回大会(75年)〜青年闘争委員会結成(76年)

 1.6大会(〜6大会3中委…76・3)と全国政治闘争の強化
 2.矛盾の露呈−党建設・共産主義的目的意識性の後景化
 3.6大会路線の弱点−旧共産主義研究会路線の克服の際の誤り=大衆運動主義的歪曲の形成
  (1)誤った誤謬の基本性格
   a.階級対立激化への認識とプロ独への確信との混同
   b.経済主義批判−目的意識性に対する一面的理解
   c.政治闘争を闘うための「政治的敏感さ」の強調−実証主義への傾斜
  (2)旧共産主義研究会路線 克服過程の誤り
   a.組織法真の変更について
   b.「セクト主義批判」「ドグマ主義批判」と党派的確信、共産主義の確信
 4.克服の追求と限界
  (1)青年闘争委員会の青年同盟化
  (2)共産主義研究会凍結
  (3)政治方針の深化
  (4)共産主義意識の持ち込み・プロ独の確信の形成についての提起と頓挫
 5.全人民的政治闘争と党建設の目的意識性
  (1)革命運動上での党建設と全人民的政治闘争
  (2)旧共産主義研究会の運動構造 新路線下での政治闘争の構造と党建設後景化との関係

 (すべて略)

※すみません、入力が大変なので日和りました^^;;。ただ、革共同・ブント・インターなどの党建設論などの概括が出ていたりして(もちろん「独特の解釈」ですが(笑))結構読み応えもあるところなので、後日改めてこの部分も含め、全文公開とする予定(は未定)です。


4.6大会で共産主義研究会がとるべきであった方針−6大会路線総括の内実

 我々の事実上の結成と言える6大会で、我々が如何なる方針をとるべきであったのかの総括は、現在共産主義者委員会がとるべき方向と密接に結びつくものである。

 1.形成過程の総括の後景化

  (1)形成過程総括への消極性

 4大会でのW一派との分裂→6大会の過程で明らかになったことは、旧共産主義研究会の「二つの戦線」方針、全人民的政治闘争の観点を欠落させた党建設−改良闘争の機械的図式など、旧共産主義研究会が重大な欠陥を抱えていた事実である。
 中でも、「二つの戦線」の問題性は重大なものであり、厳密な総括が必要であった。

※「二つの戦線」とは、もちろん、共研と人力内反主流派のことです。
 ところで、この総括を具体化するためには、共産主義研究会が、協会太田派から形成されてくる具体的な過程を明らかにし、その各局面に評価を加えていくことが必要であった。
 この総括は、6大会議案として、ある程度行われているが、対外的には、極めて抽象化された内容しか出されていない。
 また、大会議案にしても、共産主義研究会が形成される前段の経過、思想的変遷の過程などは殆ど扱われていない。
 これは、6大会の弱点の1つである。
 6大会の任務は、旧共産主義研究会の全面的な点検を行うことなしには完遂できないものである以上、旧共産主義研究会の形成過程の全面的な公然化、それに対する評価の公然化が、何としても必要であった。それは、6大会以降、共産主義研究会に結集してくる労働者大衆に、共産主義研究会の党建設の「勝利と敗北」を隠すことなく自覚させ、党的意識の成長を具体的に押し進めるために、不可欠の課題でもある。

 −共産主義研究会は、この点を6大会報告(『大道』No.41)で追求しているが、6大会報告は、これだけ読んで、共産主義研究会の結成の意義と、内包していた矛盾・弱点の全体像が明らかになるというものではない。

  (2)戦線派批判、及び人力派批判・総括

 我々が、党建設という立場を明確に踏まえ、具体化していくためには、我々と密接な関連を持ちながら、別個の党建設を開始した戦線派への徹底した批判が必要であった。
 我々は、『大道』No.39「最大限の厚顔無恥と最小限の論理」で、戦線派の形成過程に関して、ほぼ必要な比較的詳細な批判を行っている。そして、その4章「社民に対する相対的先進性に安住する『全国協』」で、戦線派の思想上の基礎基本的特徴を暴いている。

※いずみはこれらの文章は読んでいませんが、「形成過程に関して」って、要するに「いかに原則を踏みにじって逃亡していったか」が詳細に書かれていることが容易に想像されます:-)
 だが、戦線派結成大会方針に関しては、『大道』No.40で「経済主義・組合主義を露呈した社民的組織の形成」で、2頁の批判を加えているだけで、以降の号では、戦線派について何も触れられていない。
 戦線派については、こうしてNo.39〜40で一応必要な領域を触れてあるとは言え、彼らが、共産主義研究会とは別個の「党建設」の方針を追求しようとしている以上、我々は、結成方針の全領域について、評価・批判を加えることが必要であった。これは、我々の党建設の方針を具体化することにも結びつくものである。

※付け加えるならば、これは、戦線派に対してだけ必要だとということではない。例えば、赫旗派結成、等、他潮流の党建設をめぐる具体的評価を加えていくこと(綱領・方針などに対する評価・対置する内容等)が、本来であれば必要なのである。戦線派は、党建設をめぐって我々と具体的に対立した潮流である以上、この必要性はとりわけ高かったのである。

※赫旗って、まだできたてホヤホヤ状態だったんですよね、当時は。この後の方に思わず「紅旗派」(赫旗に統合したうちの1派)って記述も出ちゃってたりして(笑)。
※で、実際にこの論文より少しあとの旧青共同は、赫旗や建党協議会のことをかなり痛烈に批判していますが、しかし現在、「国際主義」編集会議は建党協といっしょに「コム」ってゆー統合の試みを行ってるみたいです。あぁ、流れゆく時代(とき)。

 また、人力派については、『大道』No.38までに批判を行っているので、必ずしも不足しているということではないが、しかし、この批判派、6大会前−即ち、労働者大衆の目から見れば、旧路線の下で行われたものである。
 従って、6大会路線の下で、人力派の方針、特に結成方針と、結成後の問題点を概括することが望ましいものであった。
 −即ち、戦線派批判にしても、人力派批判にしても、我々が、彼らとは別個の党建設を目指す立場から、その方針の対比として、位置づけを明確にしながら、扱っていくことが求められていたのである。

  (3)形成過程の総括
    戦線派・人力派批判の軽視の風潮

 a.「潮流論」克服過程での誤った傾向−“行き過ぎ”の発生

 我々は、6大会で「潮流論」の克服に、とりわけ注意を集中した。
 「潮流論」とは、人力派・戦線派などに特有の思想で、前衛党不在下で日本階級闘争に於いて、労働者階級の自然発生的な戦闘性は、社民左派に反映されてきた、とする理論である。ここから、労働者階級と遊離することなく、、労働者階級の前衛を建設するために、社民左派の最も戦闘的な労働者層に依拠して前衛党建設に進まなければならない、という理論が出てくる。
 この理論からは、新左翼は、社民左派の戦闘的労働者と遊離したところから党建設を目指した故に、観念論的な誤りに陥ったという理解になり、一括して切り捨てられることになる。
 これが、社民左派の自己合理化の御都合主義的理論であることは言うまでもない。
 だが、人力派・戦線派は、こうした理論に陥っているが故に、社民に対する一般論的批判→共産主義党建設の一般的必要性の主張のみで、自己の正当性を根拠づけたつもりになるのである。

 それに対し、共産主義研究会は、結成時に、こうした問題の立て方の克服を確認した。しかし、その確認は、新左翼の分析の弱さによって、具体的分析のうちに生かされたとは言えず、我々の周辺から、人力派以上のゴリゴリの「潮流論」者=戦線派を生み出してしまうことになる。
 それ故、我々は、新左翼の党建設の歴史の中に共産主義研究会の党建設を位置づけ、そこを我々の立脚点とすべきであるという立場を確認することになった。

※実際に、人力派の新左翼に対する非難は、それこそ革マルもマッサオの(^^)クソミソぶりだったようです。

※まぁ「言うまでもない」って程、明らかではない気もするのですが(笑)、分裂後の青共同が、自らの組織建設を新左翼な領域で考えていた以上、「明らか」と言ってしまえるのかも知れません。
※実際、青共同が「過渡的任務」を推進しはじめるはこの論文が出た少し後からなのですが、しかしこれもある意味、三里塚反対同盟の不幸な分裂、まさにこれを「不幸」と感じる大衆を「つかむ」チャンスと考えてたんじゃないか、って気もするんですよね(^^;;)。
 「潮流論」は、当然ながら、自己の形成の事情を、くだくだと強調する。即ち、社民との闘いが如何に大変な闘いであったのか、自分達が、社民に対して、どれだけ先進的であったのかの証明が、自己の党派の位置づけの主要なものとなる。
 それに対し、我々は新たに結集する層が関心を持ち、あるいは、彼らに関心を持たせるべきことは、反日共系諸党派の党建設の追求とその破綻の総括(社民左派の党建設の追求も、その末席には位置している)であって、我々の形成の事情にまでつきあわせるべきではない、という理解を行った。
 その結果、我々は、形成事情の提出には消極的になる。また、それと関連して、我々の形成過程にとっては重大だが、日本革命運動総体にとっては大して重要ではない人力派や戦線派批判に、機関紙のページを多くさいたりすることは、正しい方針ではない−という結論に至るのである。
 −だが、これは「潮流論」批判を推し進めた結果、反対側の誤りにまで行きすぎてしまったものである。
 何故なら、我々が前衛党を目指す存在であり、労働者階級の最高の団結形態を、我々への結集をもって実現させようとする存在である以上、我々の形成事情は、新たに共産主義研究会に結集する層にも共有化させることが必要である。
 即ち、我々は、労働者大衆に、共産主義研究会の成長・発展を通じた革命運動の成長を呼びかけるものである以上、共産主義研究会の強さと弱さを、隠すことなく提出し、労働者大衆と共同の総括を行い、旧共産主義研究会と、新たに結集する層とが、共通の土台の上で党建設を推進できるための土台・手がかりを確実な形で提出することが必要であったのである。

※出た!青共同「らしさ」の重大な柱である「自らの弱い面をさらけ出す」芸風(^^)。
 そのために、形成過程の総括、人力派・戦線派批判などが重要であり、機関紙などの重大な比重をとってもとりすぎではないことは明らかである。
 結論的には、次のようになる。
 第一に、我々は「潮流論」克服の観点から、我々の思想上の党派的位置と、全党派、とりわけ、その先進部分である新左翼との関係の中で明らかにする努力に、基軸的な比重を置かなければならない。この観点から、6大会の党派関係に関する基本姿勢は大旨正しい。
 第二に、上述のことは、我々の特別の関係にある戦線派・人力派などの批判、我々の形成過程の公然たる提出を、少しでも弱める根拠とはならない。例えば、「潮流論」批判にしても、それ自身、直截に行われた方が、より有効なのである。

 b.他党派批判の位置づけの誤り、及び社民潮流と関係したことの“ハンディ”への消極的対応

 その第一は、「内部事情」に拘泥するブント・革共同などの党派闘争への反発である。
 例えば、西田派は、日向派を、全国委は紅旗派を、反革命と規定し、それとの対決が労働者階級の中心任務である如く、機関紙で毎号絶叫している。
 −こうしたひとりよがりの他党派批判が克服されるべきであることは当然だが、それは次の点を前提にして言えることなのである。
 即ち、共産主義党建設−労働者階級の最高の団結の形成を追求する作業は、階級闘争の基軸をなすものである。それは、階級闘争のすべてを包摂することはもちろんありえないが、その中心領域に位置する−あるいは、それを志向するものでなければならない。
(従って、“我々だけが正しいのではない”という認識から複数前衛論を主張することは責任逃れであり、

※この頃はもう「紅旗」ぢゃなくって「赫旗」だってば!(笑)。
※「全国委」は、もちろん、通称関西ブント・機関紙「烽火」。本拠地はお菓子のタカラブネの労組なのですが、このあたりの内情って書いちゃっていいのかどーか自信ないので書きません^^;;。熱田派支援の中では、「労働情報系」とは一線を画していましたが、反天連枠では一緒にやってましたよね?(これも自信なし(^^;;))
「他は間違っていて我々は正しい」という認識をドグマチズムと批判する思想も、同様のものである。)
 それ故、前衛党建設に於いては、他の前衛党建設の試みと、我々のそれとを、党建設の基本路線(マルクス・レーニン主義の評価、国際共産主義運動の評価、時代規定、党組織論、日本の権力規定、基本戦術、などの領域)で比較し、我々の正当性を根拠づけ確認する作業が不断に行われていなければならない。他党派との比較が、情勢分析や正字法真の領域だけになってしまっては、決定的に不十分である。

 以上から、第一の点については、次のように結論づけられる。
 (1)他党派−特に、我々と大公使、かかわりのあった他党派の党建設の基本路線については、具体的に評価を加えていくこと、それを公然化していくことは、義務的なものである。
 (ブントなどが、分裂した相手について、こうした批判を執拗に行ったこと、それ自身は全く正しい)
 (2)(1)を前提的に踏まえた上で、その後、各派の分析・批判をどこまで、どのような位置で行っていくのかは、時々の任務(必ずしも、情勢的な任務だけではなく、理論闘争・党建設の任務も含めて)で決定されていくことである。
 (先に触れた、西田派や全国委などはこの点で誤っている)
 我々は、現実には、(2)の領域でのブント批判を(1)に拡大し、(1)の点の意義を抹殺していたのである。

※このあたりの「党派闘争論」、これもまた青共同独特のものです。ただし、彼ら/彼女らの他党派批判の中でも、中核派に対するそれについては、そーとーに的を射ているんじゃないかな(^^)。

 第二の理由は、我々が過去、社民潮流から形成され、75年まで社民潮流と深い関係にあったことを公然化することへの恐れである。
 協会派との共闘をかかげる第4インターが、主流的位置を占め、「三顧問」がもてはやされるという恐るべき現状とは異なって、70年代中葉までは、新左翼系大衆の中に、社民−社民左派への反発・軽蔑・違和感(およそ、共に闘うなど考えられない、といった認識)が広範に存在していた。
 従って、我々が、日韓、狭山、三里塚を中心とする新左翼系の政治闘争に切り込んでいこうとするに当たって、「社民としての過去」が重大なハンディになることは疑いなかった。

※これ、まじで涙が出るですよ(うるうる)。そーまでして、社民と訣別したいんかい!みたいな。よっぽと、戦線派合流組との分裂が堪えたのかも知れませんねぇ…
 ここから、過去について、詳細に提出することへの恐怖感が強く作用していたのである。
 この、「過去の事情」の暴露への消極性は、当時、次のように説明されていた。
 即ち、我々は6大会で、新たな路線の下で出発するのだから、新路線の下に結集する者に、旧路線の事情的な総括などを負わす必要はないし、形成過程を、我々の特徴として、特に自覚させる必要もない−というものである。
 −確かに、事情的な総括抜きに潮流の全体像が把握できる状況が望ましい。
 しかし、過去の総括、特に時情的総括の比重を下げるためには、新路線の体系化の完成度が高くなければならない(完成度が高いということは、総括も的確に行われているということなのだが)。
 綱領原案も提出されていない6大会路線の下で、新たに結集する層と、党的意思統一を深めるためには、新たな層が、我々の到達段階をも具体的に把握する手がかりとして、形成の事情も含めた形成過程の総括を、できるだけ具体的に、しかも公然化して提出しなければならなかった。

 我々が、この任務に対して、“社民との関係の公然化によるハンディ”を恐れ、消極的になったことは、日和見主義という他はない。それは、客観的に、党の無謬性をネツ造し結集軸とする日共、革共同などと本質上、同様の思想−真実の隠蔽である。
 もちろん、我々は、協会との関係についても、『大道』No.39で触れていることもあり、完全に隠蔽しているわけではない。その限りで、日共、革共同と同水準というのではないが、我々が克服すべき弱点の根拠

※この「党の無謬性」こそ、スターリン派や黒田イズムの真骨頂なんですよね。で、逆に第4インターや構改系は自らの無謬性を主張しないんですが、それと同時に党的凝縮も重視してませんでした(プロ青なんか「重視」どころか「もともと追求してない」ってフンイキ(笑))。解放派はレーニン主義党を否定して任侠的結合感で恨み骨髄路線(苦笑)。対する青共同のこのスタンスは、割とブントのそれに近いのかも知れません。
を積極的に提起しようとしなかった問題性は免れない。
 過去の社民とのかかわりを大胆に提起しながら、同時に、我々が社民潮流の限界を突破して革命派に成長できる根拠・路線を積極的に突き出すことをもって、その“ハンディ”を止揚すること−我々には、この“勇気”が問われていた。しかし、我々が行ったことは、新左翼の思想状況への安易な迎合であったと言える。

※これはまぁ、さすがに「言うは易し」的結果論の世界じゃないかと思います(^^;;)。ムチャですよ、やはりそこまで大胆にやるのは(^^;;)

 2.6大会に於ける『進め共産主義の大道を』破棄の総括

  (1)6大会に於ける党的結集軸への誤った理解
  (2)『進共大』総括と変革の方向(綱領に向けた発展追求の具体化)
  (3)『四つの課題・四つの実践』と党組織活動

 (すべて略)

※『進共大』や『四・四』については、特に後者は、「いかにも社民左派」的ノリ全開(^^)なので、全文掲載時に解説しますですm(__)m


5.“旧共産主義研究会メンバーの立ち遅れ”と言われた事態の根拠と共研凍結−解散の誤り

 1.旧共研と6大会路線に於ける階級情勢の認識の相違
 1.“旧共研メンバーの立ち遅れ”をもたらした6大会指導部の誤り

 (すべて略)


6.総括のまとめ および6大会から現在へ

 共産主義研究会は、72年10月結成以来、三つの段階を経ている。
  (1)結成〜75年分裂(W一派の戦線派への逃亡、合流まで)
  (2)分裂−6大会(75年11月)〜共研凍結(77年6月)まで
  (3)青闘委(→青共同・行動戦線)を中心とする組織活動の時代(77年春〜)
 である。

 (1)の時代の特徴は、労働者同盟内反中央派との統合を想定していたことであり(=「二つの戦線」)、厳密な、独自組織建設とは言えない面を持っていたことである。
 それに加えて、方針上の特徴は、レーニン主義を党組織建設の独自的領域の建設に比重を置いて解釈し、とりあえず、組織体制、物質体制(財政、印刷体制等)、機関紙体制など形式面の整備を第一義的に重視していったことである。
 思想的には、旧愛知協会変革グループ(以下Aグループ)と、旧協会九州青対−労働者同盟結集−除名グループ(W一派)の連合的な性格を有していた。但しこれは、当時、連合的なものへと自覚されていたということではない。両者はマルクス・レーニン主義の原則で結集する集団を形成すること、それに組織形態を与えることが現下の確信であるという共通項で一致していたからである。

※このあたりは、この論文よりさらに詳しい、どころか「W」氏の実名がはっきり書いてある(笑)文章が、旧青共同サイトに掲載されています
 だがこの連合は、W一派が戦線派との無原則的結合のために、彼等が最も強調していたレーニン主義的組織活動の破壊を続ける中で解体した。彼等は、組織活動の原則をふみにじり、又、戦線派に合流するために、社民的な取り引き政治を全面開花させた。
 三ヶ月にわたる党内闘争をへて、W一派が少数派として分裂して以降、共研は、W一派という社民思想、サークル主義を温存してきたことへの深刻な総括に入った。

※あちゃ、この論文の前半では「半数」となっていたものが、ここでは「少数派」になっちゃってるですよ^^;;;。もう、ホントにイヤでイヤでしょうがなかった分裂だったんでしょうねぇ^^;;
 −ここで共研は、概略、次のような総括を糸口とした。

 共研が『進め共産主義の大道を』を中心とする結集軸、『四つの課題、四つの実践』と、組織活動の規範、マルクス・レーニン主義の原則、反スタイズムとの対決、サークル主義批判などに関する少なくない内部文章・理論文章の発行を行いながら、W一派の社民思想・サークル主義的非組織的行動の開花を許してしまったのは、次の点に核心がある。即ち、それらの思想が、ブルジョアジーとの戦闘行動の中で実践的検証を経ていなかったために、W一派にとっては、いくらでも、口先だけの承認が可能であった−こうした総括である。
 ここから共研は、いわば、実践的検証の中での党建設・政治闘争の中での党建設と言うべき路線に入りこんでゆく。
 上述の点に焦点をあてた総括は、核心の一面はついていたが、しかし又、一面的なものにとどまるものであった。
 何故なら、W一派の上述の行動は、(1)労働者同盟と共研の関係に関する思想闘争のあいまいさ、誤り、(我々が労働者同盟と公然たる討議を行わず、別組織建設を行ったこと、等)、(2)新左翼と共研の関係に関する理解の誤り−などにも根拠を持つものであって、決して「実践的検証」のみが核心になるものではない。即ち、我々は、思想統一上の誤り、弱点の厳密な検証、それを克服する思想体系、党組織建設、組織活動の基本方針などへの全組織的な思想統一を十全にはかった上で、実践的検証に進んでいくべきであった。

 (後略)




 正直なところ、この文章を読んだ、これまでにもいろいろな党派の「他党派批判」を読んだことがおありの方にとっては、この文章の「特異性」はあまり明確ではないかも知れません(^^;;)。
 しかし、解説中にも書きましたが、革マル派に対してすら(もちろん、当然ながら、青共同は革マル派に対してはかなり厳しい批判を加えています。それはもちろん、青共同が新左翼の持つ戦闘性を肯定し、それを歪めたのが「非科学的な反スタ主体性論・疎外論」に他ならない、と認識していたからです。しかしその深層には、やはり、愛知地方の学園で革マルと直接対峙してきた経験があるんじゃないでしょうか:-))使わない「逃亡」「脱落」というレトリックを、「社民」であるところの、「日本階級闘争上大した位置を占めない」ところの戦線派に対してのみ用いているというこの事実。他党派に対する原則的な批判の姿勢とは打って変わったこの「日本的」な貧困なセンス、なんとかならないのかなぁ、としんみりしてしまいます(u_u)。

 実は先日、「趣味者」関係でメール交換をはじめた友人(っつーか大先輩^^)より、あまりにあんまりなご指摘をいただきました。
 青闘委(旧青共同のさらに前身)が三里塚に華々しくデビューしてまもなくのころ。他党派の現闘が彼らにつけたキャッチコピーは、なんと

ちょっと待て。あなたの後ろに青闘委。

 その意味するところは、

「バカ話に対しても、すぐに糾弾をはじめる青闘委の諸君」

 ってことだったそーです。

 なんか、ほとんど解放派なみの姿勢(^^;;)。
 そして、そんな姿勢だからこそ、戦線派に対してはよっぽと腹に据えかねたモノがあったのでしょうねぇ...。

 でも、この話を聞いて、青共同ってある意味「言行一致」ではあったんだなぁ、って思ったのと同時に、「あー、そりゃいずみがふぁーんになるべくして出てきた党派だわ(笑)」といずみ自身に対してあきれてしまいました(^^;;)。
 いずみが最初にまじめにハマった思想は、紹介文でも触れたとおり、日蓮正宗です。これがまた、既成仏教のくせに「他宗派解体路線」もいいとこの宗教(^^;;)。しかも、戒律も形式主義にぎりぎり陥らない程度に厳しくって、他人にも自分にも「厳しさ」を求めてたんですよね。
 じゃ、いずみがそれにハマったからといって、自分に対して厳しかったかといえば、総括の局面では多少はそーだった気もしますが(^^;;)、でも地道な活動の積み上げって点ではどちらも全然ダメだったんですよね^^;;

 結局のところ、いずみはそーゆー「厳しさ」を、自分自身に・内面に求めるのではなく、「求めさせてくれる思想」に求めていたのです。そして、当時全く知らなかったそんな逸話を持つ党派のふぁーんになってしまう、ってだけの、実に単純な図式だったのかも知れません。

#なんか、Lが同連帯企画とか言いながら、結局は自分の話になっちゃったですね^^;;;



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