#021 特別編:名前変えました(^^) - 2. 身上書

98/04/12 updated.

 事前にいずみが入手した情報では、「申立にあたっては、自分の生い立ちを訴える身上書があった方がよい」とのことでしたので、かなり時間をかけ、B5版全14枚の身上書をつけてみました。
 が、しかし、これがモトで、調査官との面談では大変な思いをすることともなりました…(激疲労)
(面談の模様については、現在準備中ですm(__)m)

 なお、プライバシーに特にかかわるごく一部が伏せ字になっています。ご了承ください。



名の変更の申立をするにあたっての身上書

平成11年3月17日 ×× ××  

 私は33歳のコンピュータエンジニアです。
このたび、自らが「性同一性障害」であることによる社会生活の困難を解消するため、戸籍の名を変更する申立をさせていただきたく、ここにお願い申し上げる次第です。
 かなりの長文で大変恐縮ですが、どうかご検討いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

1.私の生い立ち

 私は昭和40年、東京に生まれました。両親は教師で多忙だったため、生後より2歳になる前までの間、母方の祖母に預けられて育てられました。3歳のとき、父方の祖母がなくなり、また弟が生まれたことにより、母が退職し、以後は両親のもとで育てられました。
 ものごころついたころから、外出して他の男の子たちと遊ぶことがほとんどなく、家に閉じこもって絵本を読む、母親のウェディングドレスや洋服を着させてもらいはしゃぐなどの行動が見られたそうですが、私自身は当時、そのことを別に奇妙とは思いませんでしたし、「男のくせにすぐ泣く」などと怒られれば「くやしい」と感じるなど、自分のことを「弱虫な男性」と認識していたと思います。

 しかし、中学生になり、男性としての生理的な機能が現れてくると、それへの反動か、「自分は男性ではないかもしれない」と考えはじめました。
 当時はもちろん、「性同一性障害」などという言葉はありませんでしたし、自分の肉体がまぎれもなく男性のそれであることは客観的事実として十分理解してもいたので、そのような意識が自分の中に湧き出してきたこと自体、「実に不可解なこと」だったのです。
 ただ、当時はまだ中学生でしたから、それが社会的な困難を引き起こすことが予見できませんでした。どころか、中学校(私立の男子校)内を化粧して歩き回ったり、部室で女性ものの洋服を着てみたりして、周囲に「自分は普通の男性ではない」というアピールをし、その「不可解さ」を解消する、というとんでもない行動をしてしまっていました。(その結果、同じ中学に3歳下の弟が入学した後、「おまえの兄貴は変態だ」などといじめられてしまったようです。弟には大変迷惑をかけてしまいました。)
 そのまま大学に進学し、最初のうちは「自分がこんな意識を持つのは、女性と付き合った経験がないからではないか?」と思い、無理にガールフレンドをつくって遊んでみました。しかし、何をしても心がときめかず、単なる「ともだち」以上の関係になれないことにがっかりしました。やはり自分は、普通の男とは違うのかな、と。それ以来、女性とお付き合いしたことはまったくありません。
 その後学生寮に入寮しました。親元から離れた結果、服装などについて「やりたい放題」の状態に陥り、寮内での生活は女性の服装ですごすことが多くなりました。ただし授業やアルバイトは、「それでは認められない」という現実があったため、男性の服装のままでしたが…

 そのアルバイトが面白くなり、大学の授業には出なくなり退学し、そのまま正社員として働きました。忙しく、またバブル期の好景気もあり、体重管理に気がまわらなくなり、どんどん太ってしまったこともあって、女性の洋服を着ることができなくなってしまい、「女性としての自分」を封印した状態のまま、ずっと働いてきました。

 しかし、バブル崩壊後勤務先が相次いで倒産。失業期間、どんどん体重が減り、そんな「封印」が解除できることとなったのです。
 平成6年、ふたたび実家を出て1人暮らしをはじめた後は、日常生活もどんどん女性化し、仕事のとき、旧友と会うとき、公的な用事のとき以外はほとんど、女性としてすごすようになったのです。そして雑誌などから、「性同一性障害」という言葉と、その意味を知るようになり、「自分はこの『性同一性障害』とやらではないか?」と考えるようになったのです。

 平成8年、インターネットの普及とともに、「性同一性障害」についてのホームページなどが次々と開かれ、また海外の専門的なホームページも簡単に閲覧できるようになり、これまでは専門書などを読まねば得られなかったさまざまな情報・知識を知ることができるようになりました。そして同年11月より、いわゆる「ホルモン療法」(女性ホルモンを投与し、男性ホルモン濃度を低下させる療法)を開始しました。
しかしその結果として、乳房が発達し、また、周囲の言によれば「女性としか思えない表情・しぐさが見られる」ようになり(自ら書くのは気が引けますが)、実際に当時「男性として」共同経営に参加していた会社での就労・接客に困難を来すようになりました。ともに経営に参画していた方たちと慎重に相談した結果、平成9年8月に円満に経営から降り、運良くそのまま9月に「女性として」別の会社に就労することができました。
 当時の会社のスタッフは、みな私が戸籍上は男性であることを承知していましたが、社外的には「××泉美は女性です」とされていました。そして顧客のみなさんは私を当然のように女性だと思い、女性として接してくださいました。中学生以来、「夢」だと思っていた、自分にとって「とても自然な姿」で仕事をすることがついに叶ったのでした。

 しかし、そのような生活に突入することで、逆にさまざまな面で、困難にも直面することとなったのです。

 なお、大変お世話になったこの会社でしたが、仕事があまりに厳しく、体調を壊してしまったため、つい先日退職させていただきした。現在は、フリーのコンピュータエンジニアとして働いています。その結果、会社にいたときとはまた別の困難にも直面することとなってしまったのです。
 これらについては、第3章でご説明申し上げます。
 また、私の肉親が私についてどう理解しているか、私との現在の関係はどうなっているかを、第4章でご説明申し上げます。

2.「性同一性障害」と私

 「性同一性障害」は、英語名 Gender Identity Disorderの和名で、従来は「性転換症」と呼ばれていたものです。
 この疾患の国際的な定義は、添付させていただきました資料13「性同一性障害」にICD−10(WHOによるガイドライン)・DSM−IV−R(米国精神医学会によるガイドライン)、各々によるものが掲載されています(つまり、国際的には以前より「疾患である」と認められていたものです)。我が国においては、資料14「性同一性障害に関する特別委員会答申」の第3章2項(添付資料では6ページ)にて診断基準が示されています。これらをまとめれば、「肉体的な性別が正常であり、なおかつそれを十分認識していながら、自分がそれとは反対の性別であるという確信を持っていて、その確信が他の精神疾患からもたらされるものではない」という状態ということです。

 なお、資料16によれば、「肉体の性が男性で自分が『女性である』という確信を持つ」人については、その「確信」が確たるものになった時期が比較的バラバラになっています。
 私の場合を申しあげるなら、幼少時においては、その芽はあったものの確信ではありませんでした。そして思春期の頃、その思いが非常に強くなり、成人前に確信と至ったように思います。ただ、その確信は持ちつつも、「では実際に女性として生活できるのか?」という厳しい現実の前に、その確信を実生活に反映させることができなかったのです。その代わり、周囲の親友には打ち明けて悩みを聞いてもらったり、大学の寮内やなどで女性の服装をすることで「私は『普通の男』ではありません」というアピールをしていました。後者については、私の抱えていた事情を知らない人には「余興」と思われることによって、「本当の自分」は却って知られずに済む、という意味合いもあった気がします。
 社会人になった後も、友人たちとのパーティなどでたまに「余興」を装って女性の服装をすることがありましたが、これはどちらかと言えば、信頼できる友人たちに対して「本当の自分はこうなんだ、と知ってもらう」という意識があったように思います。事実、友人たちの反応(キモチワルイ、前よりはマシ、等々)を見ながら、徐々に日常生活を女性として過ごすように地ならししていた面もありました。当時は我が国においては「性同一性障害」の治療法は知られていませんでしたし、私もまた知らなかったのですが、偶然にも「リアルライフテスト」(資料14の8ページ)を自ら実践していた、と言えるかも知れません。
その当時の友人たちとは今でもおつきあいがありますが、いっしょに飲みに行ったり街中で偶然出くわしたりしても、誰1人嫌がることなく挨拶してくれています。当時の「地ならし」がよい方向で実を結んだようで、時には辛辣な批評をしてくれたこれら友人たちにはとても感謝しています。
 もちろん、女性として働けるようになったのも、彼らの協力のおかげです。

3.戸籍名と通名が異なっていることによる、社会生活上の困難

 私は平成9年3月より現在まで、特に戸籍名が必要と思われる場合を除き、すべての社会生活を、申立を行った「××泉美」(×××××××××××××××を使っております)という名前=通名で行っております。この通名は、事情を説明し、両親と3人でじっくり話し合った結果、母親が名づけてくれたものです。(私と両親との関係については、第4章で申し述べます)
 平成11年3月より、私はフリーランスのコンピュータ技術者として就労しておりますが、出向先およびお客様に対しては、すべて「××泉美」を名乗っております(資料5)。また、出向先およびお客様は私を女性として認識しています。今回の仕事をご紹介くださった会社は、私が戸籍上男性であることは認識していますが、名前は「××泉美」として認識しており(資料4)、「××××」という氏名は全く認識していません。
 平成9年9月より平成11年2月までは、勤務先の会社で、対外的には「××泉美」を名乗り(資料6・7・9−A)、税務処理上は戸籍名「××××」として処理されていました(資料8)。
 また、私は、自らが「性同一性障害」であることに基づき、「性同一性障害」そのものの紹介など含めたさまざまなパフォーマンスを、通名の読みである「いずみ」というペンネームで行ってきました(資料10・11・12)。「泉美」は母が決めてくれた名前であり、また普段から用いている名前でもありますので、それをどうしても使いたく、一応ペンネームは通名とは変えよう、ということで「いずみ」とひらがな表記にしたものです。
 私生活上は、完全に「××泉美」として生活しております(資料9−B)。
私は現在、ルームメイトの男性と2人で高層分譲マンションに居住しております(私たちが居住している部屋は母親の名義です)が、他の住民のみなさんも、私を完全に女性だと認識しておられるようです。下町のため、エレベーター内では見知らぬ顔同士でもしばしば会話となるのですが、おじいさんから「おねえさん、バレーボールか何かやってたんですか?」と話し掛けられたことが何度もあります。

 しかし、実生活上、戸籍上の名がどうしても使えない場合がしばしばあります。また、逆に戸籍上の名と通名が異なっていることにより問題が発生する場合もあります。そしてそれらの場合には、さまざまな困難や障害にぶつかり、あるいは好奇の視線にさらされたりすることも少なくありません。

 まずその前提として、「私の場合、男性として就労・生活することは女性として就労・生活するよりもはるかに困難である」という事実があります。
 もちろん、ここ3年間の女性としての生活を行うことにより身についた、さまざまな生活様態自体が、周囲には「男性としてきわめて不自然」に見える、という面もあります。
そして、ホルモン治療の結果、私の乳房はすでに大きくなり、外見上「男性」とは到底みなしづらいものとなってしまっています。
 もちろんこれらは、私自身にとっては「本来自分に『あるべきもの』ができたのだ」という点で、非常に喜ばしく、精神的にも安寧が得られる結果です。
 しかし、それらはもちろん、私のことを「男性である」と思っている人からすれば「きわめて不自然なもの」に映ります。
実際にこれらは、平成9年8月に、自らが経営に参画していた会社を退職せざるを得なくなった唯一の理由となったものです。
 また、男性として生活していた頃から利用していた飲食店にて、女子トイレを利用しようとしたところ店員に咎められたため、仕方なく男子トイレを利用したところ、店中のお客さんが大騒ぎになってしまい、以降私はその店では女子トイレの利用を黙認されるようになった、という事件もありました(最近はあらゆる場合に女子トイレを利用しています)。

 今現在、私が戸籍名を用いざるを得ず、そのためにしばしば困難や障害が生じている局面には、以下のようなものがあります。
  (1)報酬振込先である銀行口座の名義
  (2)クレジットカードの使用
  (3)役所・銀行における各種手続き
  (4)一般の病院への通院
  (5)不在時の書留郵便の受け取り
  (6)就職活動や受注先に提出する履歴書の記載
  (7)レンタルビデオ店などに提示する身分証明書
  (8)クレジットショッピング契約時に提示する身分証明書
  (9)勤務先での二重帳簿問題

 以下、これらについて具体的に申し述べます。

(1)報酬振込先である銀行口座の名義
 私は現在、フリーのエンジニアとして働いています。
一般に、フリーのエンジニアは、人材派遣会社を通して仕事を請け負うことが多いようです。このようにすれば、契約社員のような雇用形態でも、能力に応じて安定した就労が可能なようです。
 しかし、私の場合は、このような方法で仕事を請け負うことができません。
 ほとんどの人材派遣会社・在宅勤務斡旋会社では、本人確認の手段として、報酬振込先を本人名義の銀行口座としています。現在、銀行口座を個人名で開設するためには、銀行窓口で身分を証明する書類の提示を求められるため、間接的に本人確認ができる、との判断のようです。
 しかるに私は、私自身が「××泉美である」ことを証明する、公的な証明書をなに1つ有しておりません。そのため、銀行口座を「××泉美」名義で開設することができず、そのような人材派遣会社に登録したり、仕事を請け負ったりすることができない状態になっています。そのため、同程度のキャリアを持つ一般の男性・女性エンジニアに比べ、著しく就労のチャンスが制限されてしまっています。
 現在は、事情をよくご理解いただけている会社1社(資料4)のみが取引先であり、そちらには大変お世話になっておりますが、常に切れ目なく仕事が発生しているわけではないため、生活は非常に不安定な状態になってしまっています。
 そして、仕事が一時的にないような場合、一般的なアルバイトをしようとしても、やはりまったく同様の問題が発生しています。飲食店・販売業などでは、ほとんどが給与を本人名義の口座に振り込む形で本人確認としているのです。
 もし戸籍の名を「泉美」と変更することを認めていただけるのなら、「性別が記載されておらず、しかも公的なものとして通用する」身分証明書である「運転免許証」を取得することで、「××泉美」という名義の銀行口座を開設することができ、これらの問題は一気に解消されることとなります。

(2)クレジットカードの使用
(3)役所・銀行などにおける各種手続き
(4)一般の病院への通院

 クレジットカードを利用した買い物の際、レジで「××××」のサインを求められることになります。また、役所などで各種手続きを行う際や一般の病院への通院も、「××××」の名で行います(カウンセリングを受けている診療所では、このような問題は生じないように配慮されています)。しかしこの際、店員や窓口の方にしばしば「本人ではないのでは?」と不信がられることがしばしばあります。また、その際レジや窓口の周囲にいる他のお客さんに好奇の眼で見られることも大変多いようです。特に周囲から「あぁ、この人オカマなんだ。」と指をさされるときの屈辱には、非常に耐え難いものがあります。(「オカマ」という語は、本来まったく関係のない「同性愛者」「性同一性障害者」などを、ネガティブな意味合いで揶揄する語です。私の母によれば、特に戦前に都市部で育った世代にとってはもっと極端に「男娼」を指す語として使われており、今でもそのイメージは払拭されていない、とのことでした)
 これらも、戸籍の名を「泉美」と変更できれば、すべて解消されます。

(5)不在時の書留郵便の受け取り
 私あての書留郵便は、当然ながら「××泉美」あてで配達されます。私またはルームメイトが在宅していれば、当然自宅でこれを受け取ることができます。しかし2人とも不在の場合、郵便局はこれを保管し、再配達・勤務先への配達・郵便局での受け取りのいずれかを選択できます。
 再配達は時刻まで指定できないため、多忙な場合、配達日を半日開ける必要が出てしまいます。そのため、勤務先への配達・郵便局での受け取りのいずれかしか選択肢がないのですが、郵便局で受け取るためには身分証明書が必要です。
 しかるに、(1)でも申し述べたとおり、私が「××泉美」であることを示す公的な身分証明書はありません。結果、これまでは、数日遅れでの勤務先への配達を選ばざるを得ませんでした。
 そして退職してフリーランスとなった現在は、この方法を常時採ることができなくなってしまいました。そのため、現在は仕事や所用を休んで再配達を依頼せざるを得ない、非常に不便な状況にあるのです。
 戸籍の名を「泉美」と変更できれば、きわめて近所にある集配局に寄って受け取ることが簡単にできるようになります。

(6)就職活動や受注先に提出する履歴書の記載
 一般に、就職活動には履歴書が必須です。また、コンピュータエンジニアリングの仕事を受注する場合、受注先に履歴書を求められることがあります。このような場合、現在は本名を書かざるを得ません。本章の冒頭で申し述べたとおり、私は男性として就労することが困難なため、相手に「性同一性障害」についての一定以上の理解がない限りは明らかに男性名である「××××」を記載することができません。そのため、はじめから就労の機会を放棄するしかないのです。
 もちろん、履歴書には性別を記載する欄があります。しかし、男性として生活し就労していた大昔でも、私はこの欄に自分から記入したことがありませんし、それを指摘されたこともありませんでした。ですから、名の変更を認めていただければ、性別欄は空欄のまま提出することで、この問題は解決できるのではないかと考えております。

(7)レンタルビデオ店などに提示する身分証明書
(8)クレジットショッピング契約時に提示する身分証明書

 身分証明書の問題はすでに(1)で申し述べましたが、特に(7)に関しては、ビデオ店の店員がほとんど近隣のアルバイトであることからも、何か噂を立てられてしまうのではないか、という恐怖心から、一切利用することができない状況になってしまっています。

(9)勤務先での二重帳簿問題
 これは以前勤務していた会社で実際具体的に生じていた問題です。
 前の会社には正社員として就労していたため、税金などの手続き上の問題から、税務処理は「××××」で行っていました(資料8)。また、給与振込先の銀行口座名義も「××××」です。しかし、対外的には私は「××泉美」として就労しており(資料6・7・9−A)、会社の事務処理はいわば「二重帳簿」状態となっていたわけです。
 このことは、業務上、さまざまな問題となっていました。税理士に提出する資料や帳簿が、作業した人によって「××××」と「××泉美」が混在してしまい、多大な混乱を来しました。また、新しく入社したアルバイト事務員に事情をいちいち説明していなかったため、任せていた給与振込作業が「××××って誰ですか?」ということになって滞ったこともあります。
 これらは本来、「性同一性障害」を抱え、しかも戸籍名が本人の「こころの性別」と逆の性別を連想させる者を従業員として雇用していたからこそ発生していた問題です。そのコストは、会社側の多大な負担となっていました。
現在は同社を退職し、フリーランスとして働いているために上記のような問題は発生していませんが、今後、ふたたび正社員として就労する、あるいは自ら会社を設立して事業を始める、などとなれば、上記の事態が再び発生することは必至です。
 戸籍の名を「泉美」と認めていただくことで、これらの事態も一切発生しなくなると思われるのです。

4.両親と私の関係

 資料3として、私の両親の自署・捺印による「同意書」を添付させていただきました。
 私の両親は、現在、基本的には、私が「女性として生活する」ことを認めてくれています。今回申請させていただいた「泉美」という名は、母親が「女性」である私に対して新たに命名してくれたものです。

 両親に、私が「普通の男性とは違う」と認識されたのは、平成5年の夏だったように記憶しています。当時私は両親と同居していましたが、ある日、自室に隠してあった女性ものの洋服類を見つけ、「これは何だ?」と追及されたのです。私は当時、女性アイドルが好きで、女性アイドルたちのポスターを部屋中に貼りまくっていたので、母親としては「女性アイドルの洋服を盗んできたのではないか?」と目の前が真っ暗になったそうです。もちろん私は意を決して「これは私が自分で着るためのものです。私はどうも、自分が女性であるような意識があって、好きになるのも男性なのです。」と告白しました。
 しかし意外にも母親はそれほど驚きませんでした。もちろん、「盗品ではなかった」という安心感が強かったこともあるのでしょうが、当時から既に同性愛は一般に認識されつつありましたし、母親は大学で国文学を研究していたので、我が国の歴史上、何度も何度も「男色」が登場することを理解しており、その延長線上で捉え易かったようです。
 もちろん、今現在の医学知識としては、「自分自身がどちらの性別だと認識しているか」を問題とする「性同一性障害」と、「自分の恋愛相手の性別がどちらか」を問題とする「同性愛」はまったく別物であることがわかっており(資料17の1枚め右上)、実際に「肉体は男性でこころは女性」という人のうちかなりの割合で「恋愛対象は女性である」という人が存在していることも統計上示されています(資料16の4枚め下・資料17の3枚め左下)。しかし当時、私も母親もそのような医学知識はほとんど持ち合わせておらず、私自身も「自分は同性愛者なのかも知れない」という誤った認識を持っておりました。
 なお、きわめて蛇足ながら、私の恋愛対象は男性で、女性には性的嗜好も興味も沸きません。にもかかわらず「女性アイドルが好き」というのは一見奇妙ですが、友人である数名の「女性アイドルが好きな一般の女性」たちと話をしてみて、「私自身が女性アイドルになりたかったのではないか?」という一定の結論を得るに至っております。
 母親はその後、私に「病気にだけは気をつけろよ。」とだけ告げ、以降、それまでとまったく変わらない接し方をしてくれていました。

 しかしその後、両親との関係がこじれていた時期が、正直あったのです。
 それは平成9年の正月、実家で突然やってきました。
 当時私はふたたび1人暮らしをしており、既に仕事以外の日常生活を「女性」として過ごすようになっていました。前年11月からはホルモン療法も開始しており、既に精巣は退化しはじめており、勃起自体も非常に減少し、無理に射精しても精液中には精子がほとんどない状態になっており、このままホルモン療法を継続すれば、すぐに「子供が作れない」状態に至ることは確実でした。もちろん私はそれを望んで、いや、「そうでなければならない」という強い確信の下、この治療を行っていたのです。
 実家に帰ってみると、当時静岡に住んでいた弟夫婦が来ていました。
 しばしの和やかな歓談をし、弟夫婦が帰った後。両親は私に対し、「次はおまえの番だね」と執拗に言い続けたのです。
 私はそれまで、3年前、自分は女性には性的興味がない、と両親に宣言し、両親もそれを十分認識している、と思っていたのです。しかし、目の前の両親はそうではなく、私に「男性としての」結婚を迫ってきたのです。
 あまりの執拗さに、私は思わず「実は女性ホルモンの注射を始めた。乳房もできはじめているし、もう子供はできない体になっているんだ。」と言ってしまいました。
 本当は、もっと段取りをとりながら、地ならししながら、ショックを与えないように少しずつ告白していくつもりだったのですが…あまりのうっとおしさに、「どのみち説明しなくちゃいけないことだし」と口をついてしまったのです。
 もちろん、両親のショックは大変大きなものでした。

 それからしばらくの間、両親とは、家から家まで30分で着けるところに住んでいるのに、電話も通じるのに、手紙のやりとりをするようになりました。
 両親はどちらかと言えば、精子がなくなることよりも乳房が発達することに対する危惧を表明してきました。たとえば、浴場・水泳などで困るのではないか、との疑念を示してきました。この手紙は現物もコピーも現存していないのですが、印象的な部分のみコンピュータに入力してありましたので、以下に引用させていただきます。
 以上、否定的な意見ばかり述べたが、これは私見であり、何が何でも従わせよう、と考えているわけではない。君自身がいろいろと悩んだあげくのことだろうし、その悩みのために精神の安定を損なうということもあり得るし、自分の欲求と仕事といかに妥協させるか、その接点をどこに求めるのかが、課題となっているのだろうとは思う。
 しかし、君は一度思い込むと後先考えずに突っ走るところがあるので、あとの後悔がなるべく少なくて済むようにとの老婆心から、このような手紙を送った次第である。
 はじめに述べたとおり、時間をかけて、腰を据えて、じっくりと対応したいと思っているが、仕事が忙しいのを口実にずるずると引き伸ばし、後日「既成事実」として追認させようなどとは考えないでほしい。
 私ももう古稀を迎えたので、残された寿命も長くない。できるだけ早く、返事がほしい。
 それに対し私からは両親に、私は「性同一性障害」であること、既に日常生活は女性として行っていること、手術まで希望しているが当面はそれを実行するつもりがないこと、私がこういう人間になったことは決して両親の育て方のせいではないことを説明しました。
 なぜなら、自分の gender identity なり sexuality なりは、もう、内面的には曲げようがない、と思われるからです。
 大学生になりたてのころ、いろいろ変えようとしてみたけれど、何も変えられなかった。
 インターネットでいろんな方々に尋ねてみても、みなさん、そういう経験をお持ちのようです。
 世間一般の男性たちが、女性に恋し、女性に欲情し、女性と性交するのと同じように、私は、女性として男性に恋し、男性に身をゆだねるのです。それだけです。

 最後に、これだけは申し上げておきたいのですが、自分の「息子」が、このような状態になったことについて、「育て方に失敗した」などというバカげた疑問だけは、持たないでください。「原因」が、そうではない場合(つまり、生理的な問題でそうなった、など)などたくさんあり得ます。
 そして、もし仮に原因が「育て方」だったとしても、では今生きている私は何なのですか?こんな人間は存在してはいけないのですか?

 私は、立派に育てていただいたつもりです。
 この後、何度か手紙のやりとりをする過程で、両親は、「とにかくこれだけはまず約束してくれ」と、2つの条件を出してきました。それは、手術に関すること、弟に関することです。(他にも4つの条件がありましたが、これらは「条件」というよりも「訓示」に近いものですので省略します)
3.外科的手術について
 これは、ホルモン投与とはかなり大きな相違があると思うので、もしこれを受けたいと考えた場合は、必ず事前に親と相談することを約束してほしい。

5.兄弟やその関係者に与える影響について
 これは、君も言うように、最も慎重さを必要とする項目である。××にだけ話すならそれなりの理解も得られようが、×××さんには話すな、というのもおかしい。しかし、×××さんに話せば、それをご両親に黙っていよ、というのは酷以外の何物でもない。そして、×××さんのご両親は、よい意味で古風な方々だから、それこそ、腰を抜かしてしまうだろう。だから、もし耳に入った場合に大混乱が起こらぬよう、周到に準備をしておかなければならない。具体的には、今後の課題として残るだろう。
 資料14にもあるとおり、我が国では、外科的手術は本来「治療の最終段階」として位置づけられています。私は、最終的にはこの手術を希望していますが、そのためにはまずなによりも、女性としての自分の社会的な地位を確立することが先決である、とも考えています。そしてそれが来るのは、我が国では、そして私自身の問題としてもまだまだ先です。ですから、この条件3には即座に賛成しました。
 条件5は、もとより「最も重要な問題」として、今後取り組んでいくことを約束しました。

 そしてその後、直接実家に出向き、両親と直接の話し合いを行った結果。
 母親が言いました。
 おまえ、「好きな人ができたら結婚してもいいか?」なんて、前言ってたよね。おまえが男が好きだって聞いてから、それはずっと頭の片隅にあった。そして、今回の件以来、いろいろ考えた。昨日なんか、ほとんど寝てない。…もし、そういう人が現れたら。必ず両親に紹介するように。普通の夫婦なら当然するべきこと…義理の親が病に伏せたら、たまには見舞いにくるとか、法的に財産の関係がややこしくなるからそれをきちんとしておくとか。
 その上で、近隣に対してルームメイト然として振る舞えるのなら、今のマンションで共同生活してもいい。

 両親にやっと認められた。私は不覚にも泣いてしまいました。

 ともあれ、両親にはこれで「認知」はされました。

  (この後、1段落伏せさせていただきますm(__)m)

 この章も長くなりましたが、最後に、弟夫婦の理解についてご説明申し上げます。
 弟本人には、平成10年4月、当時の弟夫婦の居住地である××に私自らが出向き、詳しく説明しました。弟はすぐに事態を理解し(中学生の頃の体験=第1章などもあったためでしょうか)、外科的手術まで含めて賛成してくれました。
 弟はすぐに奥さんに事情を説明し、奥さんはご自身の実家のご両親に説明したそうです。しかし意外にも、反応は、弟の言によれば「ピンと来ていないようだよ。実際に見たわけじゃないしさ。」とのことでした。
 弟にはその後8月にも××(6月より転勤)に会いに行き、また本年正月には私の実家で奥さんにも会うことができました。私自身は、どのようなリアクションを受けるか少々恐れていましたが、事前に弟が十分説明してくれていたせいか、まったく違和感なく接していただけて、とても感謝しています。

5.最後に−本申立を行うきっかけとお願い

 既に何度も申し述べてきたとおり、私は2年前に女性としての日常生活を開始しています。そして、「戸籍の名を変更することは法的に可能である」という話を耳にし、平成9年3月に母親より「泉美」という名前を授かりそれを通名として利用しています。
 一般に通名として使われている名を戸籍名とするためには、少なくとも5年以上、その通名が社会的に通用していなければならない、と、書物などに書かれているようです。私も当初は、「泉美」を5年間使おう、そうすれば認められる、と考えており、実際にそうしてきたわけです。それが通名であることでの少なくない困難を抱えながらも、なんとかがんばろう、と。
 しかし、平成9年9月に女性として就職してみると、とたんに、この「泉美」が通名に過ぎないことでのさまざまな大きな障害につき当たってしまったのです。
 そしてフリーランスとなった現在、その障害はさらに大きくなってしまいました。特に就労・仕事の受注などでいちいち支障を来たす現状は、生活そのものが成立しなくなることに直結します。
 しかし、前の会社で「どうしたものか」と悩んでいた中、1つの新聞記事が私の目に留まりました。資料18です。
 長期に渡る通名の使用を理由とせず、「性同一性障害」により現在の生活に困難を来していることを理由に、名の変更が認められた、と。
 もしかしたら、私の名の変更も認めていただけるかもしれない。そうすれば、現在私が「性同一性障害」であることにより抱えている困難のかなりを解消できる。
 そう思って、今回の申立をさせていただいた次第です。

 ぜひ、私の申立を認めていただけないでしょうか。
 よろしくお願い申し上げます。


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