「二期実力阻止へ!」
1999.10.11 確定  
 今回は、青年共産主義者同盟(準)(現「国際主義」編集会議)の、三里塚闘争へのかかわりについて、1984年の集会で撒かれたビラを掲載します。

 三里塚闘争については、ここを読まれている方にいまさら説明するまでもないかも知れませんが^^;;、とりあえずかいつまんで。
 羽田空港に変わる新たな国際空港を建設する方針を1962年に打ち出した国は、いろいろな場所を候補に挙げましたが、その都度地元の反対運動により頓挫します。そして66年、国は、抜き打ち的に成田市三里塚への建設を発表しました。この場所には御料牧場があり、またほとんどの農民が小作農で反対運動が盛り上がらないだろう(それまでの候補地は自作農が多く、地元保守議員なども抵抗した)、との判断からだったと言われています。
 だがしかし、地元は空港反対同盟を組織。クリスチャンだった戸村委員長を先頭に、さまざまな闘争を繰り広げます。当初は社共既成左翼も参加していましたが、官僚的統制を図ろうとした日本共産党を支援から追放(→絶縁宣言)、前後して、新左翼諸党派との共闘を追求し、非妥協的な実力闘争を展開していきます。
 71年には2度に渡る土地収用・強制代執行が行われ、地元農民の体を張ったたたかいが行われ、また一旦決定した開港を実力闘争により粉砕した、日本反体制運動史上に輝く78・3・26もありましたが、結局空港は滑走路1本という不安定な状態で同年5月に開港。
 しかし、残り2本の滑走路の「予定地」内にはたくさんの自作農が住んでいました。これを強制代執行の対象にすれば、1期のときよりもさらに重大な事態が生じることになることは明らかでした。
 そこで国は、成田用水という治水工事を「エサ」に、反対同盟農民の分断を図ります。反対同盟は、当然ながら「予定地」の内外の農家で結成されており、「外」の農家(すなわち、騒音などの問題はあるにせよ、農業を継続することはできる)にとってはこれが大変「有用」にも見えてしまうわけです。
 「あれだけやったのに負けた」という挫折感から、この成田用水は国の目論見どーり、動揺を走らせることに成功します。そして、これを期に三里塚現地で中核派が活発な政治工作をするようになります。

 偉大なる78・3・26は、第4インター(現JRCL他)・プロ青(現グローカル)・戦旗共産同(通称日向派・現「ブント」(怒))の、通称「赤ヘル三派」を中心とする支援によって克ち取られました。この時期、中核派は何をやっていたのかと言うと、もちろん顔を出してはいましたが、それよりも対革マル戦争=革マル派との殺戮合戦に精を出してたわけです(苦笑)。3・26でも、空港警備がガラあきにもかかわらずカンパニアデモに終始。
 その後の飛行阻止闘争(古タイヤを航路の下で燃やしたりした運動:プロ青・青共同・労調委が「飛行阻止三派」だそーです^^;;)にも不参加だった中核派は、しかし、82年になって徐々に現地政治における“介入”工作を行い、反対同盟の中でも、中核派に対する評価をめぐって亀裂が表面化します。
 そして83年3月、いわゆる「一坪再共有化」をめぐる論争を直接の引き金として、ついに反対同盟は分裂してしまいます。いわゆる、北原派と熱田派です。
 北原派には支援党派として中核派・解放派(通称狭間派)・戦旗派(通称西田派)・蜂起派・赤軍プロ革がつき、他の全党派は熱田派支援となります。中核派はこれを期に第四インターを「反革命」規定し、全国でいっせいに第四インター活動家をテロ襲撃、自らの「正当性」を絶叫することとなります。しかし、中核派はこれ以降も各戦線で第四インターとの共闘を継続するなど、同じく「反革命」規定し実際に戦争を行っていた革マル派に対する態度とは異なり、その規定は単純にテロを「正当化」するためだけに御都合主義的に出された代物でしかありませんでした。

 これに恐怖したのが、戦旗・共産同、通称戦旗日向派、現自称「ブント」です。日向派はもともと、その政治路線が他の熱田派支援党派とはかなり異なっており、本来なら北原派支援であってもおかしくないくらい芸風だったのですが(まぁそれを言えば、青共同もそうだったかも知れないですが^^;;)、「現場的憤怒に身をまかせ」て熱田派支援となります。しかし、中核派の態度を知るや否や、日本左翼史上No.2くらいに情けない(cf.→No.1)、「申し入れ」なるものを行います(笑)。当然ながらこれは中核派から暴露・一喝され、日向派は大恥をかくこととなります(笑)。

 そんな情勢から1年余。青共同は、それまで参加していた支援組織「三里塚闘争に連帯する会」から脱退します。

 もともと「連帯する会」は74年、戸村委員長が参院選全国区に出馬したのを期に、これを支援するために結成された大衆団体です。当初は中核派・解放派も含め支援党派のほぼすべてが参加していましたが、開港阻止決戦当時は赤ヘル三派のみの構成になっています。
 一方の青共同は、その前身である青年闘争委員会(青闘委)時代の77年、それまでの路線に対する根本的な総括、というかみそぎ^^;;をもって三里塚に結集し、現地実力闘争に参加します。開港阻止決戦では5・20第5ゲート進撃戦、7・2第9ゲート突撃戦を担い、特に後者はカセットコンロ用のボンベと火焔ビンを続けて機動隊に投げつけながらトラックで突入し、ほぼ全員が逮捕されるという激しい闘いだったようです(しかし、火焔ビン程度ではボンベは爆発しませんって!^^;;もっとも、ほんとに爆発するよーだとその場にいた敵・味方ともに全員死んでしまう気も...(汗))。
 そして、「三里塚闘争の中での党建設」とでも言うべき路線を走る青闘委は、開港直後の既成事実化粉砕闘争を主力で担う中で、より強固な現地での「足場」を求め、「連帯する会」に加盟し、前後して住母屋団結小屋に現闘を常駐させ、いわゆる「三里塚現闘体制」を確立します。

 青共同は、分裂に至るまでの流れの中では、どちらかと言えば熱田派系芸風とは反するニュアンスの主張を行いつつも、分裂では熱田派支援にまわります。一応、その理由は述べられてはいるものの、個人的には、三里塚現地における「現場的現実政治」、それから、「青共同が考える自らの潮流建設の基盤が、熱田支援諸党派の側にあったから」というのが本音ではないか、と考えています。実際、青共同は三里塚・反原発以外の政治闘争に関しては、自ら「労働情報系」とラベリングして批判している政治ブロック(赤ヘル3派を中心とする)に依存して取り組んできているわけですし。

 今回のビラは、それから1年後、青共同が「連帯する会」を脱退する直前に、集会で配布したものです。


空港既成事実化粉砕!三里塚闘争の再団結を!
二期実力阻止へ!
左翼戦線の混迷を突破する新たな革命潮流建設を!

1984.7.1 青年共産主義者同盟(準)

はじめに−
左翼戦線の混迷を突破し、三里塚闘争勝利へ


 反対同盟のみなさん!全ての友人のみなさん!
 帝国主義世界は、もはや歴史的に時代遅れの存在であることによる矛盾の深刻さを、至るところで噴出させている。世界各地での戦争、内乱、そして、日本を除き米欧諸国で「失業問題」が国民の不安の第一位を占めるという経済危機の深さ。

※今は日本でも「失業問題」が深刻ですね:-)。
 こうした情勢の下で、日本帝国主義は、韓国、フィリピンをはじめとする後発諸国人民の闘いに敵対しながら、韓国−ASEANを筆頭に侵略を強め、侵略戦争準備に拍車をかけている。
 帝国主義本国階級闘争に於て、自国帝国主義の他民族抑圧と闘い、民族排外主義・差別排外主義と闘うプロレタリア国際主義の立場が、増々、切迫したものとして求められている。そして、国際主義の目的意識的闘いは、経済主義を克服する全人民的政治の基礎の上にだけ実現することが出来る。

※現在、もはや自衛隊の海外派兵はあたりまえになりました。「邦人救助」、もう、古今東西一日千秋のごとく繰り返されてきた「大義名分」(笑)はすっかり民衆に信じられてしまったのでしょうか....
 しかし、6・17反トマホーク闘争は、日本の左翼戦線・政治闘争の、今一層の混迷を暴き出した。
 そこでは、トマホーク配備と、自国帝国主義の侵略戦争準備との関連に対する分析などは全く欠落し(否、行おうともせず)、“党派は問題を複雑にする、単純に考えなければいけない”という類の、労働者大衆の認識を経済主義的に狭めることを促す市民主義的発言がまかり通り、左翼戦線がこれを何一つ批判し得ないという状況が、これまでにも増して進行したのである。6・17闘争は、小手先と思いつきの“人集め”に終始した。
 82年反核闘争を契機に一層深化した労働情報系左翼の市民主義への迎合、大同団結主義、経済主義は、一段と深刻なものとなっている。
 帝国主義本国に於ては不回避的に社会排外主義に成長する日和見主義・経済主義と対決する革命勢力の形成をもって、帝国主義打倒に向けて全身する共産主義運動の奔流を、今こそ生み出さねばならない。
 韓国・フィリピン人民をはじめとする被抑圧人民の闘いと連帯し、全斗換来日阻止、三里塚二期工事阻止、柏崎原発への核燃料輸送阻止をはじめとする政治闘争の前進を闘いとらねばならない。そして何よりも、そうした政治闘争の発展にとって不可欠である革命勢力−共産主義運動の混迷を突破するプロレタリアートの前衛党を、日本階級闘争上に打ち建てなければばならない。

※はい、第一章終わり。^^;;
 左翼のビラの文面は、第一章は全体情勢の分析、第二章は課題別情勢の分析、でそのあとにのーがきがあって、最後はスローガンとゆー、様式美の世界なのです^^;;

二期工事を粉砕せよ

 三里塚闘争は、国家権力との非妥協的な実力闘争によって政治闘争の一大基軸の位置を占めてきた闘いである。それ故に、三里塚闘争は、闘いに敵対する既成左翼=社共や革マル派の日和見主義・経済主義と対決してプロレタリア国際主義を成長させる条件を大衆的な規模でつくりあげた。
 政府・公団の二期着工攻撃が強化されている三里塚闘争は、この攻撃と対決し、日本帝国主義の侵略戦争準備と闘う階級闘争の一支柱として発展することが求められている。

※当然ながら、革マル派は日共同様、反対同盟から絶縁状を出されています。革マル派は、大衆運動には、自派勢力拡大以外の一切の意義が存在しないことを公然と明言・路線化している党派であり、それ故、他の全党派からの憎悪を買っています。

 現在の三里塚闘争の課題は、84年に入って、一挙に具体的な動きを表面化させた二期着工攻撃と対決し、成田用水攻撃を打ち砕き、政府・公団が望みをかけている「話し合い」攻撃を粉砕し、「用地」内同盟を先頭に、反対同盟・全国支援の戦闘体制を整備強化することである。7月6日に予定されている「事業認定処分取消請求訴訟」に対する反動判決策動との闘いも、その一環に他ならない。二期攻撃を粉砕するためにも、空港既成事実化に対する攻撃的な闘いが増々要請されている。
 そして、反対同盟・全国支援の戦闘陣形の強化のためには、何としても、三里塚闘争・反対同盟の再団結が実現されなければならない。

二期攻撃激化の下で
三里塚闘争の階級的成長が
求められている


 三里塚闘争の発展は、反対同盟・全国支援の階級的武装の成長にかかっている。
 反対同盟は、国家権力による強制的な農地取り上げ攻撃に対して、農民の小ブルジョア的な立場の枠内で闘うのではなく、日共と訣別し、プロレタリアートの相対的に戦闘的・階級的な翼=戦闘的左翼との公然たる共闘の下に、自らその戦闘に立って闘い抜いた。このことが、三里塚闘争の、全国住民運動の中でも群を抜いた戦闘性・持続性・大衆性を生み出した根本的な理由に他ならない。
 三里塚闘争が築いた成果が、しかし現在、左翼諸潮流の路線的混迷に規定され、分裂的事態という否定的な現実にまで至っていることは事実である。
 二期着工攻撃の激化の下で、三里塚闘争が、その歴史的蓄積を積極的に活かし、階級的闘いを強化することは、日本階級闘争の前進と、三里塚闘争勝利のための、現下の核心的任務である。

 それに対して、三里塚闘争の困難さの表面的なものに注意を奪われ(例えば結集が弱い、等)、三里塚闘争が突出した闘いを切拓くことが出来た根拠を真面目に検討することもなく、三里塚闘争に市民主義的な“大衆性”を求めたり、目新しい趣向で人熱めをしなければ大衆化しない、などという思いつきが、繰り返し持ち出されている。だが、これらの方針は、三里塚闘争ほどには成長出来なかった市民主義的運動の水準に三里塚闘争を引き戻す以外の、どんな意味も持つものではない。
 或は、反対同盟農民が、空港既成事実化の重圧の下で、特に、成田用水攻撃の下で、農業の維持そのもので苦闘している現状に対して、共産主義を自称する支援勢力の中から、“三里塚闘争の根源は政治意識だけでなく営農意欲でもある”“成田用水拒否の根拠は、単に空港関連事業であるからというよりも、近代農政との闘いでなければならない”“三里塚で人民の側の生産力をつくらなければならない”など、およそ、階級性の初歩をも投げ棄てた驚くべき主張が登場している(これらの主張とそれに対する批判は、『マルクス・レーニン主義をかかげて』No.2を参照してください)。彼らは、三里塚闘争と反対同盟が、農地死守を、単に農業問題として捉えるのではなく、全国労働者人民の政治課題として位置させ闘ったことで前進が実現されてきた歴史を、小ブルジョア思想をもって塗りつぶそうとしているのだ。

※マルクス主義的世界観によれば、帝国主義本国においては、農民は革命的な階級ではありません。それゆえ、社労党や第4インタースパルタシストなどは、「三里塚闘争は農民の土地を守る運動であり、プロレタリアートの利害に反する運動である」と規定しています。
※青共同は、三里塚闘争がプロレタリアートの政治闘争として特別の意義を持つことを唱えていましたが、では他の支援各党派はどう位置づけていたのかと言えば、実はあまり明快だったとは言えないと正直思います^^;;。青共同からすれば、そういった諸派の三里塚に対する位置づけ自体が批判の対象だったわけです。
 連帯する会主流派のこれらの勢力は、昨年3月の分裂的事態を、「農民の主体性」が回復された、などと持ちまわったのだが、その結果が、熱田派支援の政治的分散化をはじめとする諸問題の顕在化でしかないことを、ようやく今になって突きつけられているにすぎない。

 帝国主義本国における階級闘争は、闘いの階級的性格・政治路線をあいまいにする経済主義の克服なしには、民族排外主義・差別排外主義と対決して闘いを前進させることは出来ない。上述の路線的な没階級性に対して、労働運動との結合に三里塚闘争の階級的発展の環を求めようとする思想は、(前述左翼諸党派の、あまりにひどい市民主義的、エコロジスト的腐敗への批判という意図はあったとしても)結局、経済主義の別の型を対置するものでしかないのだ。
 二期攻撃の激化の中で、三里塚闘争の政治闘争としての階級的成長が、核心的なものとして求められている。

※青共同が多用していた「経済主義」とは「経済的な要求=賃上げ等々で闘うことで、プロレタリアートが階級形成(自らが次代を担う階級であると自覚し、そのために団結し行動する)できる、と考える思想」を指します。

三里塚闘争の再団結に向けた
政治的武装を強めなければ
ならない


 三里塚闘争の再団結は、闘いの焦眉の要請であり、多くの労働者大衆の要求ともなっている。“分裂は積極的であった”などの主張が三里塚闘争の発展と無縁なものであることは、増々明らかになっている。
 しかし、他方で、次の誤解も正さなければならない。
 それは、再団結の追求とは、決して、統一のための裏取引や、妥協のために政治路線をあいまい化することを意味するものではなく、その逆だということである。
 再団結の追求とは、三里塚闘争を担う労働者大衆が、分裂的事態をもたらした闘いの弱点を分析・切開し、それを克服する政治路線への確信を獲得・強化し、新たな水準での再団結の条件を、大衆的に、闘いの路線的な内容として押し上げることに他ならないものである。
 労働者大衆が、広く、三里塚闘争の階級的性格を(その強さも弱さも含めて)総体的につかみとることなしには、現在の諸問題を突破する階級的な展望を一人一人がつかみとることなしには、再団結は偶然の幸運を期待する以上のものには決してならない。
 そして、熱田派に結集している諸勢力が、熱田派の方が北原派よりも先進的な位置にあると自覚しているのであれば、なおさら、熱田派自らの弱点の切開・総括をも含めた三里塚闘争の分析を、北原派以上に、彼らに先駆けて行ってゆくことが必要なのである。

※出た!「弱点を切開する」これ、青共同の主要論文には必ず出てくる有名なスローガンですね^^;;まぁそこが好きだったわけです^^;;;;

 再団結の主張に対して、“見通しがあるのかないのか、見通しもなく統一の提案を安易に行うことは問題”などの主張が出されているが、こうした主張の中には、労働者大衆が消え失せ、裏取引政治への志向だけがちらついている。最も確かな「見通し」は、分裂的事態と再団結をめぐる政治関係の総体に対する労働者大衆の政治意識の成長の中にだけ存在する。
 同様に、“我々は、国家権力、及び北原派と対峙しているのだから、こうした問題の討議を安易に公然化するべきでない”、という類の主張もしばしばなされているが、こうした主張は、「敵前」を理由に公開討論を封殺してきたスターリン主義、日共と同様の反レーニン主義的方法であると言う他はない。

 5月5日、戦旗・共産同は、この問題に関連して『戦旗』紙上に論文を発表したが、それをめぐって、連帯する会は、批判の声明を出すまでに至っている。
 戦旗・共産同が、83年春、反対同盟の分裂の危機に際して、「分裂へと至る流れに身をまかせ、それに同調」したことを自己批判するに至ったことは、その限りで積極的なものである。しかし、その内容は、誤りの核心にまで掘り下げられたものでは全くない。
 特に、戦旗・共産同は、82年9・16青行隊文章(『闘いの原点から百姓の団結を訴える』)に対し、現熱田派支援系の大半が支持する中で、我々と共に批判を展開しながら、83年3・8分裂に至る過程で、どんな路線的総括もなしに、その立場を投げすて、北原派に対する一面的な批判に陥っていた。これは、労働者大衆の全面的な政治的成長を常に任務の核心とする全人民的政治の立場ではあり得ない。それは、経済主義的政治の立場であり、トロツキー主義的な力学主義的政治(経済主義的政治の一典型)の立場である。
 この経過に対する総括に触れられていない戦旗・共産同の総括は、極めて皮相的なものであり、それは、3・18の中核派への申し入れや、“一坪再共有化凍結の内的確認”などを肯定する、共産主義的政治とは相容れない方針を肯定する思想(結局は、労働情報系主流派と変わらない裏政治の立場)に何らメスを入れられない戦旗・共産同の現状と照応している。

※当時、「労働情報系主流派」党派による、「時局協商懇」とゆー、なんか全然左翼っぽくないネーミングな協議機関(青共同に言わせれば「裏政治の場」)があったらしいです^^;;
※ちなみに「主流派」がある以上、「非主流派」もあるはずですが、青共同的には、例えば共産同全国委(通称関西ブント)がこれにあたるらしいです^^;;

 分裂的事態の総括は、一方で、空港既成事実化粉砕に敵対することで、既成事実の重圧による敗北意識が形成される条件を座視・容認しながら、敗北意識によって動揺する反対同盟農民の個人糾弾しかなし得なかった中核派の待機主義への批判が、何よりも根底にすえられなければならない。第二に、同時に、熱田派系の同盟・支援が、「用地」内同盟や、日和見主義者と断固として闘おうとしている反対同盟農民が不信を持っても仕方がないような方針・運動を行ったこと(9・16青行隊文章の支持−成田用水問題の捉え方の弱さ、三里塚闘争を農業問題と捉える理解、種々の市民主義的思想、((中核派の個人糾弾に単純反発するあまり))日和見主義者に寛容であることを容認するような思想、等々)を根本的に総括・克服し、実践化することである。

 こうした総括と、それに基く思想的な武装を、熱田派に結集している我々が、反対同盟を先頭に先進的にやり抜き、再団結の条件を押し上げなければならない。
 “向こうが悪いのだから、北原派が謝ることが先だ”などというセクト主義は、三里塚闘争の発展には無縁である。
 第四インターは、反対同盟再統一の一条件に、「中核派が反対同盟ひきまわしをしないこと」(『世界革命』833)なるものをあげているが、反対同盟と中核派の組織関係を無視し、北原派反対同盟が永久に中核派の従属物であるかのように捉えてしまうこうした理解こそ、中核派と共通するセクト主義的発想であり、再団結のために克服されなければならない思想である。

※ここは「言うは易し、行うは難し」の典型みたいな言い回しですよね、さすがに...^^;;
※ただ、現実に当時は「北原派だけど、中核は嫌い」とゆー農民もいたわけですよ。後にそれらの人は小川派になるわけですが...

連帯する会の『声明』と、
戦旗・共産同をめぐる問題、
“連帯する会”パンフについて


 戦旗・共産同の5・5論文をめぐって、連帯する会は、『声明』を発表したが、我々は、連帯する会の討議でも明らかにしてきたように、この声明については反対せざるを得ない。それは、戦旗・共産同の一連の方針を支持することを意味しているわけではない。但し、連帯する会が、自ら、現在の三里塚闘争、分裂的事態などへの評価を明確にする討論を放棄し続け、(連帯する会の全党派への要請下で)我々だけが提出した見解についても長期に渡って放置され、突然、確認とは無縁の、分裂を肯定的に捉える見解が“連帯する会の基本確認”として提出されるなどの事態を放置してきた事実が、同時に捉え返されなければならない。この事の自己批判的総括抜きに、戦旗・共産同に対して、「まず反対同盟や連帯する会の……討議に委ねるべき」という点だけを批判するのは、全く無責任な立場である。こうした理由で、我々は、『声明』に対し、不支持の見解を明らかにしてきた。

※いよいよここから、このビラが本当に言いたかったこと=「連帯する会を脱退するにあたっての決意表明」がはじまります(笑)。
※といいつつ、この文面を読んでも、「脱退」を明示する直截な表現はどこにも出てはきませんが:-)

※この、「青共同が討論を提起しても他党派が相手にしてくれない」構図は、「ボヤキ」とともに機関誌上にしばしば登場しています^^;;

 尚、連帯する会は、現在、『三里塚空港・二期工事問題をどう考え、どう戦うか』というパンフを「連帯する会代表・上坂喜美」名で発行している。
 この文章は連帯する会の討議を経たものではなく、我々は内容に責任を負うことはできないが、又、内容それ自体に対しても、我々は、このパンフを支持することは出来ない。
 何故なら、このパンフには、分裂的事態について、その総括・克服方向の一端でも示されてしかるべきであるにもかかわらず、そのことに言及されていないからである。分裂的事態そのものへの言及を避けて「闘争主体が健在」「全国的な大闘争に発展せざるを得ない」などと語ることは、無責任なものと言わざるを得ない。このパンフは、分裂そのものに直接触れずに、「自主再生を果たした反対同盟」などと、分裂の肯定をこっそり行っている点も、内容・方法ともに強く批判せざるを得ない。

※代表の上坂氏は、何かと批判されることが多い人だったようで^^;;、例えば三支労(三里塚を支える労働者の会・ブント系党派で、青闘委とも77年頃は共闘・三里塚で都はるみコンサートをしかけたことで有名)が77年に連帯する会を脱退した理由もソレだった、との説もあるようです。
 更に、このパンフは、開港阻止決戦の総括から、勝利のためには「さらに広い一般民衆の支持と世論の背景が必要」であり、そのためには「新しい論理が求められている」として「違法・非合理・不経済の二期工事計画を断念せよ」という主張を行っている。
 もし、資本主義の経済全体が(現在の生産力の上では)本質的に不経済であると言う積りであれば、二期工事もそれに含まれることだけは間違いないが、その「不経済」は、三里塚に限られるものではなく、三里塚闘争の特別の政治的位置など、ここからは決して出てこない。
 そうでない限り、「不経済の二期工事」などという言い方は、経済的でありさえすれば良い、という資本主義肯定の思想を生み出すだけである(同じ論理で言えば、「不経済の国鉄を解体せよ((民営化せよ))」という事にもなる他はない)。

※このあたりが、いずみ的には「カッコイイ」レトリックであります!(^^)共産趣味と全然関係ない文章でも、これに類する言い回しをよく使ってしまうのであります^^;;
 このパンフでは、このような観点から、「対政府・運輸省闘争の緊急性」が語られているが、こうした財政的観点の強調から導かれた対運輸省闘争は、三里塚闘争の真の攻防点−三里塚現地に凝縮される力関係こそが、二期工事を阻むか否かの分岐点になること−をあいまいにするものでしかない。
 空港既成事実化を許さず、成田用水攻撃を粉砕し、「事業認定処分取消請求訴訟」への反動判決策動と対決し、自主耕作破壊策動を粉砕する闘いを、二期阻止の体制構築と結合し、闘い抜こう! 二期実力阻止・廃港に向けた大衆的実力闘争による勝利を、日本階級闘争の一大支柱として実現しなければならない。

青共同と共に闘おう

 反対同盟のみなさん!全ての友人のみなさん!

※いよいよ、お約束的様式美の終章です^^;;
 三里塚闘争は、日本階級闘争の最前線で闘ってきたが故に、、既存左翼諸潮流の路線的な限界・混迷がもたらす否定的な事態を、最も厳しい形で蒙ってきた。
 80年代、国際的に帝国主義の危機が深まり、唯一、“繁栄”の幻想を残しているとさえ言える日本帝国主義も、その危機を深め、侵略戦争準備を強めている現在、既存左翼の限界を根本的に克服する新たな革命潮流建設は、労働者人民にとって急務である。
 我々青共同(準)は、過渡的任務によって、共産主義運動の混迷を克服する革命潮流建設の基盤づくりのため全力で闘っている。全ての友人のみなさん! 青共同の旗の下に共に結集し、革命潮流建設。三里塚闘争勝利に向けて闘おうではないか!




 このビラ、ある意味、「青共同が弱小ドマイナー党派だったから、きれいごとばかりを書くことができた」とも言えます。「熱田派系の、党派の右傾化傾向にギモンを持つひと」をオルグ対象と位置づけていたことも想像できます。
 しかし、青共同はこのよーなビラを、熱田派内で撒くだけに留まらず、なんと北原派の集会に赤ヘルで乗り込んで撒いたそーなのであります!
 3・8分裂以降、たとえばノンセクトは、学園内で共存する他党派との関係上、自らの三里塚闘争に対する見解を表明しづらくなる、あるいはそもそも取り組み自体が不能になる、などの困難があるほど、この分裂は左翼業界全体に波紋を投げかけました。もちろん党派的には、中核派による第四インターへのテロ襲撃など、さらに困難な状況を迎えていたわけです。
 そんな中でのこの芸風。まじめというか、無謀というか、まさに「らしさ」爆発。

 そして結局、この2年半後、青共同は声明を出しつつ三里塚闘争から撤退することになります。他の党派の、なし崩し的脱落(例:旧日学戦→MPD)とは違い、ここでも「らしさ」全開だったわけですが、しかしどうも、いずみはこの芸風自体に、青共同、そして以前の共研から現在の「国際主義」編集会議までを貫く、「限界」を、最近感じてなりません。
 それはまだ、はっきりと言語化できるまでに至っていませんが、おいおい、述べてみたいとは考えています。



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